なぜモスクワは「五海の港」と呼ばれているのか

歴史
ロシア・ビヨンド
 最も近い海から少なくとも数百キロメートル離れた所にあるモスクワだが、海港と見なされてもいる。どうしてそんなことが可能なのだろうか?

 モスクワには「七丘の街」「第三のローマ」「白石の街」など多くの異名がある。最も驚くべき異名が「五海の港」だ。地理はこの謎を解き明かす助けにはならない。地図を見れば、モスクワはどの海からも遠く離れている。最も近いのはフィンランド湾(バルト海に通じ、サンクトペテルブルクがある)だ。しかしモスクワからは約600キロメートル離れている。

この異名はどこから現れたか 

 答えはもちろん歴史に潜んでいる。ただしそう遠くない過去だ。最初にモスクワを「五海の港」と呼んだのはヨシフ・スターリンだった。これには国家の急速な工業化が関係していた。

 ソ連全国で壮大な「共産主義大建設計画」が行われていた。特に野心的だったプロジェクトが運河の建設事業だ。最も悪名高いのは白海・バルト海運河で、囚人を労働力として記録的な期間で建設された。数千人の囚人が命を落としたという。

 同時に、スターリンは壮大なモスクワ再開発事業も実施した。新しい野心的で進歩的なソビエト国家に相応しい印象的な首都になるよう、街を近代化しなければならなかった。しかし1920年代のモスクワはかなり田舎らしい姿だった。数世紀に及ぶ帝政期の間、大半の開発や進歩は帝国の首都サンクトペテルブルクに集中し、モスクワは二流都市に没落していたからだ。

 スターリンは地下鉄網の建設を始め、新しい幹線道路や主要路を作り、街路の幅も拡張した(建物が動かされることもあった)。スターリンは新しい主要路や大通りの建設の妨げとなるものをすべて取り除くよう躊躇なく命じた。

 数十の古い教会や修道院など、旧体制と関係の深い建物の多くが解体された。クレムリンから1キロメートルの所にあった、16世紀に作られたモスクワ中心部の城壁、キタイ・ゴロドの壁も例外ではなかった。

 急速に発展するモスクワに大量の飲料水と工業用水を供給し、水運を可能とするため、スターリンは比較的小さなモスクワ川をヴォルガ川と結ぶ運河を作るよう命じた(すでに18世紀にピョートル大帝がこの野心的な構想を抱いていたが、実現はしていなかった)。

 128キロメートルの運河はグラーグの囚人によって1932年から1937年に建てられた。初めは「モスクワ・ヴォルガ運河」と呼ばれていたが、1947年に「モスクワ運河」に改称された。「モスクワは今や『五海の港』だ」という有名な言葉は、1937年の運河開業式典でスターリンが発したものだった。

モスクワはどの海とつながっているか

 白海とバルト海は運河によって結ばれ、バルト海は運河と河川によってヴォルガ川とつながっている。モスクワ・ヴォルガ運河の建設により、モスクワから船で白海やバルト海に出られるようになった。

 3つ目の海はヴォルガ川が流れ込むカスピ海だ。後の1950年代、もう一つの大きな運河が現れた。スターリングラード(現ヴォルゴグラード)に、ヴォルガ川とドン川を結ぶ101キロメートルの運河が作られたのだ。これにより、ヴォルガ川からアゾフ海、さらには黒海へ出ることが可能になった。

 こうしたソ連の大建設事業が完了すると、船から降りずに5つの海に出られるようになった。すなわち、白海、バルト海、カスピ海、アゾフ海、そして黒海だ。

 どうだろう、モスクワは海港と言えないだろうか?

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