ロシアのスリたち:「指師」はなぜ暗黒街のエリートとみなされたか?

 犯罪者のなかにも、ある程度リスペクトされる「技」があった。スリは、ロシアの泥棒たちのなかで最も権威があったが、暗黒街のこの「貴族」は、どんな点で際立っていたのだろうか?そして彼らはどのように「仕事」したのか?

 まだロシア革命前のことだが、スラム街で、こんなのどかな光景を目にすることがあった。半白のひげをたくわえた年配の男が、少年たちと遊んでいる。男は木の枝に古い外套をかけ、それに大小のブリキの鐘をたくさん付けて、すべてのボタンを留める。内ポケットには紙幣を入れてある。紙幣は、ベルを鳴らさずにポケットから引き出せる少年のものとなる。

「なんで俺が人を殺すんだ。俺は生まれついてのスリなんだぜ」

スリが逮捕されるシーン、映画「集合場所は変更できません」

 スリという犯罪は、誰もが習得できるわけではない技能だ。その素質、才能は、子供の頃から現れる。そこで、古株の泥棒は、少年たちのなかから将来の泥棒を選び出した。その際に、上のような遊びや印象的な「トリック」で少年たちを引き付けたわけだ。

 「暗黒街の『教授』は、広場でスリに必要な熟練の技を実演して見せた。たとえば、通りすがりの人のポケットから嗅ぎタバコを取り出し、タバコを嗅ぎ、またそのポケットに戻した。通行人は何も気付かずに歩いていた」。こう語るのは、刑法学者レオニード・ベログリツ・コトリャレフスキーだ。

 「最高のスリになるには、生まれつきの才能が必要だ。天与の特異な神経の鋭敏さ、瞬時の正確な反応、それを可能にする指、掌、肘、肩の構造。さらに役者の才能も要る」。犯罪界を研究しているアレクサンドル・クチンスキーは書いている。

 しかも、これらは素質にすぎず、長年の訓練で鍛えていかなければならない。手品師やトランプのいかさま師と同じくらい難しい技だ。ちなみに、ロシアの泥棒について「指を曲げる」と言うとき、これは、泥棒が刑務所内で指を柔軟にする訓練をしたことを言っている。 

 「これを教えるのは不可能だ」。ソ連時代のスリ、ザウル・ズグモフは語る。「それでも、我々は刑務所で自分の経験を教えたものだ。たとえば、強制収容所の作業場で、我々はぬいぐるみをこしらえて、それに鐘をいくつもぶら下げた。こうやって盗みの技を磨いたわけだ。『訓練』ではいつも私は、鐘が一つも鳴らない瞬間をとらえようとした」

モスクワの寄せ場、1910−17年

 なぜこういう人たちには俳優的才能が必要だったのか?ロシアに初めてスリが現れたのは19世紀。つまり、紙幣と高価な装身具が登場した時期だ。スリは、主に金持ちが集まる場所、つまり劇場、銀行、高価な店などで「働いた」。スリの外見やマナーは、すぐ怪しまれないように、貴族然としていなければならなかった。

 「読者の誰かがそうした泥棒を見たとき、彼が実はプロの犯罪者だとは、まず信じられない」。20世紀初頭の有名な刑法学者グリゴリー・ブレイトマンは記している。「こういう泥棒は、医者、弁護士、保険会社の外交員みたいに見えた。見栄えがよく、マナーも優れていて、いつも最高級の仕立て屋であつらえた豪華なスーツを着ている。この手の泥棒が、とくに劇場の最前列に座っていたりすると、当然、誰にも疑われない」 

 こうした事情から、初期のスリは暗黒街の「紳士」と呼ばれた。彼らは、その活動で暴力を用いず、脅迫や武器を使わず、被害者は金持ちだけだった。そのため、彼らの良心はあまり痛まず、帝政ロシアの警察も彼らに対して比較的寛容だった。世間でも、富裕な商人の財布を盗む泥棒は、殺人者や強盗よりもましに扱われたことは明らかだ。

 「なんで俺が人を殺すんだ。俺は生まれついての詐欺師、スリなんだぜ!ロシアのどこでも聞いてみるがいいさ。スリが人を殺すことはあるかってね。みんな笑うだろうさ!」。殺人の冤罪で拘束されたオデッサのスリの言葉だ。革命前のジャーナリスト、ヴラス・ドロシェヴィチが引用している。

 19世紀には、こういう「貴族」と警察はしばしばお互いに顔見知りだった。都市はまださほど大きくなかったし、泥棒も多くなかった。しかも、ふつうスリは、おなじみの場所や地域で活動していた。

 「これらの泥棒には、他の犯罪者のような堕落傾向はない」とブレイトマンは書いている。「ほとんどのスリが家庭と自宅をもち、子供を育てている。しかも、彼らの多くの子供は、まっとうに育った」

 こんな状況だから、警察では、おなじみの泥棒のファイルがあり、「フィリョール」つまり私服の警官は、彼らの顔も知っていた。それで私服警官は、交通機関や人混みで目を光らせていたわけだが、なぜそれでもスリは捕まらなかったのか?

「衝立屋」、「ひったくり屋」、「釣り師」

このような人混みでスリが紛れやすかった。ヤロスラフスキー駅のホームにて、1961年

 泥棒は、教育があって法律を知っていれば、被害者のポケットからお金を引き出しているその瞬間にしか、つまり現行犯でしか「しょっ引かれない」ことを承知していた。「私服」または警官がこの瞬間を逃してしまうともはや、そのお金がたまたまポケットから落ちたのでないと、証明することはできない。

 そして数秒経てば、泥棒自身からはもう財布は見つからない。お金を抜くや否や財布を地面に投げ捨てているか、助っ人に渡してしまっているからだ。助っ人は、もう静かにその場を去っており、後の祭りだ。一方、泥棒はその場に留まり、たった今盗まれた人が辺りを探すのを熱心に助けてやることさえある。

 もしそれでも疑いをかけられたら、「貴族」は芸術的に憤慨し始める、そして実際、身体検査されても何も見つからない。だから、ロシア帝国の警察は、スリを拘留することはあったが、それは犯罪予防のためでしかなかった。その後できたのは、せいぜい街から追放することにすぎず、そのおかげで、スリは、その「職能」をもって、どこでも「地方巡演」できた。

 もちろん、現行犯逮捕された者も多い。ブレイトマンは、刑事が悪名高い女スリ「魔女アニュートカ」を拘束した様子を、次のように描いている。

 サンクトペテルブルクの劇場の一つで、4件のスリ事件起きた。刑事たちは、てっきり男の仕業と思い込んで探し回り、ヘトヘトになっていたが、そのうちの一人が、人混みの中を不審に動き回っている年配の婦人に気づいた。 

 「刑事は、婦人が紳士のポケットに手を突っ込んだのを見た。喜んだ刑事は、即座に泥棒の手をつかみ、彼女がポケットに手を突っ込んだ状態で捕まえた。紳士は、刑事に向き直り、『あなた、私のポケットを探りましたね!』と叫んだ。 『失礼ですが」と刑事は答えた。『私の手をご覧ください』。紳士がよく見ると、刑事が紳士の服の上から押さえていたのは、身なりの良い夫人の手で、彼女は自分の手をもぎ放そうともがいていた。『おお!マダム!…』。紳士は驚き、こう叫んだだけだった」

サンクトペテルブルクの警察官、1917年

 1917年の2月革命後、臨時政府は帝政時代の囚人を赦免した。さまざまな「職種」の多数の泥棒が釈放された。さらに、状況も変わった。公共交通機関が出現し、鉄道網が拡大し、混雑した場所がはるかに多くなった一方、全般的な貧困化が進んだ。そこでスリの在り方も変わった。

 なるほど、彼らはまだ暗黒街の貴族ではあった。被害者の身体を傷つけなかったから。だが、スリの方法と規模は変化した。

 「ひったくり屋」あるいは「上着屋」という言葉がある。上着のポケットから抜き取るスリへの蔑称だ。「彼らはグループで仕事に出かける」とアレクサンドル・クチンスキーは述べる。

 「そして、デモ、祭り、市場などの大規模イベントを好む。一部の『ひったくり屋』が被害者の注意をそらす間に、他の者が犠牲者のポケットから抜いたり、バッグを奪ったりする。それから、『チーム』は役割を替える。見張りが目を光らせながら、他の者たちが、憤慨した被害者を押し付け、注意をそらし、『泥棒をつかまえろ!』と叫ぶ。こんな喜劇を演出することもある」

 「衝立屋」は、「衝立」で被害者のバッグやポケットを覆い隠して見えないようにする。衝立というのはつまり、丸めたレインコートとか花束とか、あるいは何かそうした物をもった手で、金を抜き取る。その間に別の空いた手で、切符を渡したり、新聞を振り回したり、何かの身振りをしたりして、被害者の注意をそらすわけだ。

 ここでは、昔ながらの、芸達者な「パントマイム」、芸術性が必要だった。ズグモフは、給料を受け取った労働者から札束を盗んだ方法をこう振り返っている。お金はズボンのポケットにあり、労働者は、その上に作業用のズボンを履いていた。 

 「路面電車が来るとすぐに、私は被害者といっしょに乗り込んだ。金が本当にそこにあるのを確かめた後、『仕事』を始めた。しばらくして彼は私に話しかけた。私の状況を想像してみてほしい。左手は、ズボンの『社会の窓』のなかに、ほとんど手首まで入っており、その指先は10ルーブルの札束を掴んでいる。と同時に私は、被害者に愛想よく微笑んで会話している…」

 通称「釣り師」のスリもいた。彼らは、釣り糸に釣り針をつけて、ポケットやバッグから財布を引っぱり出す。彼らはしばしば長距離列車で「仕事」した。二段ベッドの上から、下のベッドの所有物に針を引っかけるのだ。

「俺の指は、俺の飯のタネだ」

モスクワの市場を観察している警察官たち

 スリの最高のカーストは「絵描き」だ。彼らは、人混みのなかで被害者の服や鞄を一部切り取った(隠語では「絵を描いた」)。

 「まだ1970年代以前のことだが」とズグモフは回想する。「『絵を描く』ために、彼らは20コペイカ硬貨を半円にして研ぎ、それをさらに半分にして、つまり硬貨の4分の1で、『仕事した』。これなら口の中に簡単に隠すことができる。時々、そいつを忘れて、口に入れたまま、食ったり寝たりしたもんだ」

 なぜ口の中に硬貨を隠すのか?ソ連の刑法は、泥棒の取り締まりに関してより改善されていた。つまり、「技術的手段を用いた盗難」という概念が現れた。削られた硬貨は、盗難の技術的手段であり、発見された場合、その泥棒は最大10年の懲役刑を「食らいかねない」。

 スリの「釣り師」は、この刑を回避する方法を考え出していたわけだ。警察の眼の前で彼らは、泥棒用の竿を本物の釣り竿に押し込んで、これは盗みとは関係がないと主張した。それで彼らの行為は、通常の窃盗(最高で懲役5年)とされただけだった。

 しかし、スリの主な「道具」は、彼の気合と指だった。ということは、スリの敵は悪習と老化だ。「女たちに囲まれて、あるいはトランプ賭博をやりながらの、酒池肉林と夜ふかしは、反応の鋭敏さと警戒感を鈍化させる」。クチンスキーはこう指摘する。

スリの逮捕、1991年

 「喫煙と過食は、指の感覚に悪影響を与える。さらに老化は、上のすべての劣化に、動作の鈍重さを加える」

 もちろん、スリたちは何よりも投獄や強制収容所を恐れていた。それらは、精神を砕き、指も駄目にしたからだ。ソ連の刑事罰のシステムは、革命前の警察のような、ある面での人間味はもたなかった。1920年代、スリが蔓延していた時期は、スリはあっさり指をボキボキと折られかねなかった。

 ドニエプル水力発電所や白海・バルト海運河の建設現場での重労働、そして監獄の劣悪な条件…。これらすべてのせいで、指の柔軟さが絶望的に損なわれたため、プロのスリは「サボり」始めた。つまり、強制収容所の作業をあらゆる手段で断固回避するようになった。

 「犯罪界の内規」がつくられた。その主な規則の一つは、スリが肉体労働を避けることで、後には作業一般を回避するにいたった。そのため、スリは20世紀においても、犯罪界のエリートであり続けた。そして事実上、「お上」へのあらゆる協力に反対する刑務所内の運動を率いていた。

 スリの方法は、この「職業」の歴史を通じて、ほぼ変わらなかった。変わったのは、獲物の種類と盗む場所だけだ(したがって盗み方も変化した)。今日では、支払いはキャッシュレスだし、銀行カードを盗っても無意味なので、スリの「ビジネス」は難しくなった。これは容易に理解できるだろう。何しろほとんど誰も、多額の現金など持ち歩かないのだから。

ザウル・ズグモフ

 「全体として本物のスリは、ごくわずかしかいない。『ひったくり』ばかりさ」とズグモフは残念がる。 

 「主に彼らは若者から電話を盗む。夏はジーンズの尻ポケットから、冬はジャケットのトップポケットから。そして、それは、はした金で山師に渡される。まあ、時代が変わったということかな…」

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