ソ連史上最高のアスリート10人(写真特集)

Legion media; Valentin Kuzmin, Vyacheslav Un Da-sin/TASS
 これらのアスリートのほとんどは生きながらにレジェンドとなった。そしてその競技に革命をもたらした者もいた。

1. ウラジスラフ・トレチャーク(アイスホッケー)

 トレチャークはソ連時代の伝説的なアイスホッケー選手で、ソ連代表チームのゴールキーパーして活躍したが、鉄のカーテンの両側で大きな名声を得た。

 トレチャークがアイスホッケーを始めたのは比較的遅く、1963年、11歳の時であった。それにもかかわらず、1970年代の始めにはすでに伝統あるチームCSKA(ツェスカ)で活躍し、1972年の冬季オリンピックでは代表チームのメンバーとして金メダルを獲得、ソ連で誰もが知る選手になっていた。

 トレチャークはオリンピックで4個のメダルを獲得し、幾度も世界選手権で優勝するなど、素晴らしく輝かしい実績を残した。しかし、彼が国際的な評価を真に得たのは、1972年のサミット・シリーズのソ連対カナダ戦で大活躍し、鉄のカーテンの向こう側のファンを驚かせた時である。ソ連代表チームから(32歳という)若さで引退し、NHLでのキャリアもないにもかかわらず、トレチャークは、20世紀最高のホッケー選手のひとりであるとロシアや海外のスポーツ専門家から認められたのである。

 

2. レフ・ヤーシン(サッカー) 

 この伝説的なソ連のゴールキーパーは、後に続いたすべてゴールキーパーのプレースタイルを書き換えたという意味でサッカーに革命を起こした。ヤーシンが登場する前にほとんどのゴールキーパーがやっていたことは、ゴールの枠内で受け身的な動きをすることであった。これをヤーシンは変え、ピッチを積極的に動き、ディフェンス陣を指揮したのである。敵のシュートに対して前に出て止めるという技術を編み出し、これはその後のゴールキーパーの標準的なプレースタイルとなっていった。

 1956年のオリンピックの金メダリストであるヤーシンは、彼のプロサッカー選手のキャリアの中で150以上のペナルティキックを止めており、サッカーの歴史でもっとも信頼できるゴールキーパーとされている。彼は、黒いユニフォーム姿で革新的なプレーを見せていたことから「ブラック・パンサー」「ブラック・スパイダー」「ブラック・オクトパス」などの異名で呼ばれていた。

 

3. セルゲイ・ブブカ(棒高跳び)

 このソ連のアスリートは棒高跳びで史上初めて6.0メートルと6.1メートルの跳躍を成功させ、歴史を作った。IAFF世界選手権で6連続優勝し、1988年のオリンピックで金メダルを獲得、ブブカは男子棒高跳びの世界記録を全部で35回も打ち立てた。

 2020年にスウェーデンのアスリート、アルマンド・デュプランティスに世界記録を破られはしたものの、ブブカはこの競技のレジェンドであることに変わりなく、陸上殿堂に列せられた数少ないアスリートのひとりになった。1991年のソ連崩壊後、ウクライナ生まれのブブカは、ウクライナ国民となった。

 

4. イリーナ・ロドニナ(フィギュアスケート)

 このソ連の伝説的アスリートは偶然フィギュアスケートと出会った。ロドニナは子供の頃、学校に入るまでに11度も肺炎にかかった。この病気に絶え間なくおそわれることから、両親はモスクワのスケート場に連れて行くという重大な決断をした。

 1970年代はじめまでに、ロドニナは世界選手権10連覇を達成、1972年、1976年、1980年のオリンピックで3大会連続金メダルを獲得したフィギュアスケート史上唯一の選手となった。引退後、2007年にロドニナはロシア下院議会の議員に選ばれ、ロシアの政治家となった。

 

5. ガルリ・カスパロフ(チェス) 

 アゼルバイジャンで、アルメニア人の母とユダヤ人の父のもとに生まれたガルリ・カスパロフ(自分はロシア人だと言っていたことがある)は、アゼルバイジャンは1991年までソ連邦の一部であったためソ連の旗のもとで競技していた。

 19歳までにカスポロフはソ連人チェス棋士アナトリー・カルポフに次ぐ2位にまでのぼりつめた。彼らがライバルとして競い合っていたことはチェス史上とてもよく知られていたことである。1985年についにそれまで君臨していたチャンピオンを破ったカスパロフは、22歳で史上最年少の世界チャンピオンとなった。それ以降、カスポロフは、255か月にわたって世界1位のチェス棋士の座に留まり続けるという大記録を打ち立てた。

 競技から退いた後、カスパロフは、政治の世界に入り、ロシア指導部に批判的な立場を取った。現在はニューヨークに住んでいる。

6. ワレリー・ハルラモフ(アイスホッケー)

 フォワードとして活躍したワレリー・ハルラモフは、60年代後半から1981年の間、33歳の若さでこの世を去るまで、ソ連や世界のホッケー界に君臨し、何百万人ものソ連のホッケーファンにとって現存するレジェンドであった。

 体格にはそれほど恵まれていなかったにもかかわらず、ハルラモフは持ち前のスピードとテクニックで氷上を支配した。ソ連代表チームのメンバーとして、1972年、1976年、1980年のオリンピックで金メダルを2度、銀メダルを1度獲得した。死後何年過ぎてもなお、彼は史上最高のホッケー選手のひとりだと認められている。彼は2005年にホッケーの殿堂入りした。

 

7. ユーリー・ヴァルダニャン(重量挙げ) 

 ソ連邦アルメニアの重量挙げ選手は複数の世界記録を打ち立てた男としてこの競技の歴史に名を刻んだ。特に、ヴァルダニャンは82.5キロ級で400キロを挙げた世界最初の重量挙げ選手である。

 ヴァルダニャンは1977年、1979年、1981年、1982年の4度ソ連チャンピオンに輝いた。それに加えて1980年のモスクワ・オリンピックで金メダルを勝ち取った。

 ソ連崩壊後、ヴァルダニャンはアメリカの政治家になった。

 

8. リディヤ・スコブリコーワ(スピードスケート)

 このソ連人アスリートの活躍によって、1960年代のオリンピックにおけるスピードスケート競技をソ連が総なめすることになった。スコブリコーワは冬季オリンピックで6個もの金メダルを獲得した最初のアスリートである。一度の冬季オリンピックで4個の金メダルを獲得したアスリートも彼女が最初で1964年の大会でこれは達成された。キャリアを通じてスコブリコーワは世界選手権で25個も金メダル、ソ連選手権で15個の金メダルを手にしている。

 

9. ラリサ・ラチニナ(体操)

 ウクライナがまだソ連邦の一部だったころにそこで生まれたこのアスリートは、19歳の時に体操競技を始め、瞬く間に国際大会で活躍するようになった。ソ連が体操で支配的な地位を占めるようになったのは、ラチニナのおかげだとよく言われる。

 1956年から1964年の間に、ラチニナはオリンピックの個人戦で14個のメダル、団体戦で4個のメダルを得た。モスクワで開催された第14回世界体操競技選手権では、彼女は妊娠4ヶ月であったにもかかわらず6競技のうちなんと5競技で優勝した。

10. オレグ・ブローヒン(サッカー)

 この偶像化されたソ連のサッカー選手は1952年にウクライナ共和国のキエフで生まれ、ディナモ・キエフとソ連代表チームで活躍した。ブローヒンは代表チームで全部で42ゴールを決め、ソ連代表チーム史上得点王のタイトルを獲得した。

 ソ連代表チームに100試合以上も選ばれ、1972年と1976年のオリンピックと1986年のFIFAワールドカップでもソ連チームのメンバーとして戦った。栄誉あるバロンドールも受賞し、また、1975年には欧州フットボーラー・オブ・ザ・イヤーにも選ばれたブローヒンは史上最高のサッカー選手の1人として認められていると言えよう。ウクライナ独立後は、この元サッカー選手かつ監督はウクライナの国会議員を2期務めた。

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