ソ連から亡命したスポーツ選手たち。どのやって国を出ることができたのか?

ライフ
エカテリーナ・シネリシチコワ
 ソ連時代、スポーツ選手は、国外に出ることが許された数少ない市民であった。そこでスポーツ選手たちは、他の人々に比べると、やや容易に体制から逃避することができた。しかし、ときにはきわめて危険な方法に挑まなければならないこともあった。そんないくつかのストーリーをご紹介しよう。

数年かけて準備をし、家族をも捨てたヴィクトル・コルチノイ

1976年7月、アムステルダムでの大会の際に亡命

 チェスのグランドマスターであるヴィクトル・コルチノイは自身のことを反体制派であるとは言わず、亡命は「チェスプレーヤーとしてのキャリアを守るためだった」としている。4度もソ連チャンピオンの座に就いたコルチノイだったが、欧米のマスコミからのインタビューに対し、「祖国では平等な機会が与えられていない、それは誠実な戦いの原則に反している」と訴え続けた。

 コルチノイは、ソ連政府は有望な選手を自ら選び、あらゆる支援を行なっていると考えていた。「政府はカルポフを候補に選びました。なぜなら彼はチャンピオンとして理想的な条件を持っていたからです。ロシア人で、地方出身で、若くて、体制に非常に忠実だったからです。カルポフは、試合ではこれ以上ないほどの支援を受け、いつも一流のグランドマスターに囲まれ、メディアは彼を称賛する記事を書き続けました」とコルチノイは、主要なライバルの一人だったアナトーリー・カルポフについて、回想している。 

 こうした批判を行ったことにより、コルチノイは奨学金を減額され、ソ連からの出国を禁じられた。しかし、1年後には禁止は解かれた(カルポフが証人となった)。1974年、コルチノイは亡命を決意したが、それについては誰にも明かさなかった。妻や息子にも内緒だったという。トーナメントで国外に出た際に、重要な書類や写真、書籍などを少しずつ西ヨーロッパに運び、1976年にアムステルダムで開かれた大会に参加した際に、インタビューで厳しい発言を行い、今回は見逃してもらえないだろうということを理解した。翌朝、コルチノイは最寄りの警察に出向き、政治亡命を求めた。

 コルチノイは亡命認定されず、永住権を得ただけであった。そこで、彼は難民認定を求めてスイスに向かい、そこでようやく自らの希望を叶えることができた。祖国に残された家族や親戚は、さまざまなものを剥奪され、困難を強いられたが、コルチノイは出国する前からそのことを予想していた。「息子にとっては悲しい人生が待ち受けることになることは容易に想像できました。しかし経験豊富な人々は、そのような決心をするときには良心を捨てなければならないとわたしに言ったのです」。

 息子のイーゴリは大学から除名され、国からけして出られないよう、「軍事機密」に携わっていると言う理由付けをするため、軍に召集された。しかしそのことを理解していたイーゴリは、召集には応じなかったため、逮捕され、ウラルの収容所に2年収監された。妻のベラは自動車を売ることすらできなかった。自動車はコルチノイの名義になっていたが、コルチノイがスイスから送る「委任状」は必ず「紛失」したのである。コルチノイは、家族を出国させてくれるようブレジネフ書記長に直々に懇願し、当時のジミー・カーター米大統領、ローマ法王にも支援を求めたが、ソ連政府が態度を軟化させ、出国許可を出したのは、1982年になってからであった。

スイスのホテルに身を潜めたリュドミラ・ベロウソワとオレグ・プロトポポフ

1979年9月、スイスでの公演の際に亡命 

 1964年にオリンピックのフィギュアスケートのペアでソ連初の金メダルを獲得したスターカップルは、続くグルノーブルオリンピックでも金メダルに輝いた。この2つのオリンピックの間にも、2人は世界選手権、ヨーロッパ選手権でありとあらゆるタイトルを手にした。そんな2人の亡命は西ヨーロッパ中を驚かせた。というのも2人は共産党員であり、祖国では「模範的愛国者」と見なされ、注目を浴び、国じゅうに愛され、3部屋のアパートまで与えられていたからである。

 ベロウソワとプロトポポフは、レニングラード・バレエ・オン・アイスのメンバーとして、スイスの公演に訪れた際に、チューリッヒ近郊のツークで警察に亡命を求めた。その時のことについて、2人は、ソ連のパスポートを預けさせられ、ホテルを転々と移動させられたと回想している。亡命が認められるまで、自分たちがどこにいるのかも分からなかったという。

 夫妻がこのような決意をしたのは、1970年代にスポーツ省が若手選手により注目するようになり、伝説的な2人のペアはベテランカテゴリー、すなわち期待値の低い選手のカテゴリーに移されたことを受けてのことだった。まだ競技を続けたいと思っていた2人にとって、これは実質的に、年金生活あるいはコーチになることを余儀なくするものだとして反発した。オレグ・プロトポポフは、選手としてのキャリアを「乱暴に中断される」別の理由を感じていた。「わたしたちがオリンピックで3度目の金メダルを獲得したら、外国にそのまま残るかもしれないと恐れたのでしょう。下腹部への卑劣な一撃でした」。また2人は財政的な問題にも不満を抱えていた。ワールドツアーに参加しても、報酬のほとんどはツアーを企画したソ連のゴスコンツェルンが得ていたのである。ニューヨークでのショーでの収入1万ドルのうち、2人に手渡されたのはわずか53ドルだったという。

 2人は16年後にようやくスイスのパスポートを受け取った。すでにソ連が崩壊した後の1995年のことである。2人は60歳を超えていた。1998年の長野オリンピックにスイス代表として出場することを希望したが、予想通り、予選を通過することはできなかった。

貧しさゆえに亡命したアレクサンドル・モギリヌィ

1989年5月、スウェーデンでの世界選手権の際に亡命

 ホッケーのオリンピックチャンピオンで、ワールドチャンピオンでもあったモギリヌィがニューヨークのホッケークラブ「バッファロー・セイバーズ」に電話をし、ソ連のホッケーチームが世界選手権で優勝を果たしたスウェーデンから連れ出してほしいと頼んだのは、わずか20歳のときであった。「バッファロー・セイバーズ」の関係者は翌日の1便目の飛行機でスウェーデンに向かい、「世界最高の20歳の選手」をアメリカに連れ帰った。

 モギリヌィは自身のとった行動について、当初はスポーツにおける国の政策を理由だったとし、「先輩たちに対する政府の態度を見ていて、自分もその年齢になったときにどのような扱いを受けるのかが見えました。競技生活を終えたとき、彼らには何も残っていません。わたしにはそれが耐えられないのです」と語っていた。しかし後に彼は、祖国ではまったく貧しい生活を送っていたと打ち明けている。「わたしは本当に貧しかったのです。オリンピックチャンピオンで、ワールドチャンピオンで、3度、ソ連チャンピオンになりました。それなのに1㍍平米の部屋さえなかったのです。そんな生活、果たして必要でしょうか?」

 ソ連側はこれらはすべてモギリヌィが貪欲だからだと説明した。アメリカに亡命したモギリヌィは、63万ドルで契約を結び、家を購入し、ロールスロイスを手に入れ、スーパースターとしての生活を送った。アメリカホッケーリーグ(NHL)では、アレクサンドル大帝のニックネームをもらい、1992/1993年のシーズンには、得点数1位となり、またNHLで、ロシア人として初めてキャプテンを務めた。

亡命に失敗したセルゲイ・ネムツァノフ

1976年7月、モントリオールオリンピックの際に亡命

 しかし、ソ連から亡命を望んだ誰もがはっきりした動機を持っていた訳ではない。17歳のソ連の飛び込みの王者、セルゲイ・ネムツァノフの1976年の亡命はスキャンダルに発展した。モントリオールオリンピックに出場していたネムツァノフはオリンピック選手村にあるカナダの移民局に亡命を求めた。

 ソ連側は、ネムツァノフはオリンピックで好成績を上げられず、 その後、アメリカで開催される予定だった大会のソ連代表チームに入れず、落胆から西側のプロパガンダの犠牲となり、カナダに残るという誘いに負けたと説明した。当時、ソ連はネムツァノフを「洗脳」し、誘拐したとしてカナダやアメリカをも非難した。カナダの弁護士立会いの下でネムツァノフと会見したソ連側は、ネムツァノフは顔面蒼白でガラスのような眼で、「わたしは自由を選んだ」とロボットのように口にしたと証言した。ちなみにモントリオールオリンピックでは、4人のルーマニアのアスリートも亡命したが、皆の注目は、「金髪のロシアのアポロン」だけに注がれた。

 西側のメディアでは、別の噂が広まった。ネムツァノフはアメリカ代表チームの高跳び選手、キャロル・リンドナーに恋をし、亡命を決めたというものである。

 しかし、問題はネムツァノフがまだ未成年だったため、政治亡命することができなかったということであった。まだ時間はあると判断したソ連政府は「セルゲイ、戻ってこい」というキャンペーンをを繰り広げ、ネムツァノフに帰国するよう説得した。ソ連がとった手段の一つで功を奏したのが、ネムツァノフを育てた祖母が帰国を懇願するというメッセージの録音で、セルゲイはこれをきっかけに帰国を決意した。カナダ政府は、いかなる抑圧も与えないという条件をつけて、帰国させることに同意した。

 提示された条件は守られたが、ネムツァノフの選手生命には終止符が打たれた。以降、2度と外国には出られなくなり、また祖国では「裏切り者」と呼ばれるようになった。

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