グリゴリー・ラスプーチンの子孫の運命

ライフ
エカテリーナ・シネリシチコワ
 ペテン師か「聖人」か――。ラスプーチンは帝国を道連れにして破滅した。その子孫は数世代にわたって「宮廷の怪僧」が落とす暗い陰の中で生きなければならず、ほとんど全員が悲惨な運命を辿った。

 ロマノフ家の側近となったグリゴリー・ラスプーチンの評価は実にさまざまだ。1916年に殺害されると、彼の人物像と歴史上の役割は「悪魔化」された。1933年、ロシアには「皇室修道僧」の後裔は一人も残っていなかった。ほとんど全員が悲運に見舞われ、長く生きられたのは一人だけだった。

「悪の分子」

 グリゴリー・ラスプーチンの7人の子供のうち、成人したのはマトリョーナ、ヴァルヴァーラ、ドミトリーの3人だけだ。1913年までは、皆モスクワから1150キロメートル離れた村で母とともに暮らしていた。皇室での地位を固めたラスプーチンは、2人の娘を連れてサンクトペテルブルクへ移ることを決めた。娘を貴族女性にして「将来を安泰に」しようとしたのだ。彼はマトリョーナとヴァルヴァーラを優秀な教育者の揃った私立の予備学校に入れ、交流の深かった皇室にも通わせるようになった。

 初めて会った時、皇室の子供たちは豪華なドールハウスに住む磁器の人形に見えた、とマトリョーナは回想録に綴っている。「皇室の子供たちは私のすべてを知りたがった。どの中学校に通っているのか、誰に髪型や服装を整えてもらっているのか、機械仕掛けの人形は持っているか、彼らのヨットを見たことがあるか、ポクロフスコエ村の私たちの牛の名前は何かなど、質問は尽きなかった!」。少女はすぐにロマノフ家と親しくなった。マトリョーナは間もなく「田舎臭い」名前から響きの良い「マリア」に改名した。だが、ラスプーチンが家族とペテルブルクに移住した一年後には、すでに世間の反ラスプーチン感情が高まっており、ラスプーチンがユスポフ宮殿で殺害されたことですべてが劇変した。ラスプーチンの家族は街を追われ、そのうちマトリョーナだけが国外に逃げた。

 その直前に彼女はラスプーチンと皇室の忠実な追従者だった将校のボリス・ソロヴィヨフと結婚した。マトリョーナは自分と夫のために新しい身分証を作り、ウラジオストク経由で欧州に向かった。西側は戦線だったからだ。シベリア鉄道は何ヶ月も列車の運行が滞っていた。ウラジオストクからはチェコ軍団の引揚船に同乗した。欧州へは日本、シンガポール、スエズ運河を経由せねばならなかった。この旅は2年を要し、マリアはその間に第一子を出産した。最終的に彼らはベルリンに居場所を見つけ、4年後にはパリに移住した。この逃避行がマトリョーナの命を救ったわけだが、兄と妹はそうは行かなかった。

 ヴァルヴァーラは父が殺害された後に故郷の兄のもとに戻った。1922年、彼女らは「悪の分子」として選挙権を剥奪された。1930年代、ドミトリーは家族や母親とともに逮捕され、北方に流刑となり、皆そこで赤痢にかかって死亡した。ヴァルヴァーラは失踪したが、一説ではチフスのため1920年代半ばに病院で死亡したとされている。

狂気の怪僧の娘

 唯一生き残ったマトリョーナのパリでの暮らしは厳しいものだった。ボリス・ソロヴィヨフはレストランの経営を始めたが、事業は上手く行かなかった。やって来るのは「付け」で食事をする貧しい亡命ロシア人ばかりだった。1924年、彼は結核を患い、若くして死んだ。この時までに、マトリョーナには2人の幼い子供がいた。

 一文無しとなった彼女は初め裕福な家で家庭教師をしたが、後に帝国劇場のダンサーとなった(サンクトペテルブルクで受けたバレエのレッスンが役立った)。

 彼女の人生は激変した。そして1930年代初め、米国のサーカスの団長バーナンが彼女を見つけた。すでに有名になっていた「宮廷の怪僧」の姓に注意を向けたのだ。就職の条件はライオンのいる檻に入ることだった。「もちろん祖母は同意した」と孫のロランスは話す。「革命や第一次世界大戦、ロシア内戦から逃げてきた彼女にとって、ライオンの入った檻はもはや怖くなかった」。

 バーナンの賭けは当たった。人々は「ロシアで暗躍して名を馳せた狂気の怪僧の娘マリー・ラスプーチン」(当時のビラの売り文句)を一目見ようと集まった。彼女は「ラスプーチンの目つき」で猛獣をなだめられるというのだった。マトリョーナはサーカス団員として欧米中を回った。

 すべてはマイアミで終わった。彼女は演技中にシロクマに襲われ、病院での長期治療の末、猛獣使いのキャリアを終えた。その後、1916年に殺害されたラスプーチンが倒れ込んだ毛皮も白かったというゴシップ記事が現れた。

 それからマトリョーナは米国の造船所でリベット打ち工として働き、第二次世界大戦後は定年まで防衛産業で働いた。1945年、彼女に米国籍が与えられた。彼女は79歳で1977年に死去した。彼女の子孫は西側で暮らしているが、曽孫のロランス・ユオ=ソロヴィエフはしばしばロシアを訪れている。 

タブーの話題

 ロランスはパリ郊外に住んでいる。長らく、彼女の家庭ではラスプーチンについて語ることがタブーだった。

 「父が机を叩きながら、家でラスプーチンの名を出したり、家族のロシアのルーツについて語ったりしてほしくないと言っていたのを覚えている。だから話さなかった」と彼女はコメルサント紙に話している。タブーの理由はラスプーチンの評判が非常に悪かったことだ。「ここ[フランス]では、『ラスプーチン』という言葉は、あまりに助言を出すのが好きな政治家を指す普通名詞として使われることがある」。

 「父が亡くなってから、私の従兄弟、父の甥が言った。私たちの歴史、私たちが曾祖父について知っていることをすべて思い出すべきだ、と」。しかし、これもしばらくは家庭内の秘密だった。

 彼女が友人にラスプーチンとの血縁を話したのは60歳の誕生日の日だった。「客人は驚いて椅子から転げ落ちそうになった」とロランスは笑う。以来、彼女は、神話化されすぎた曾祖父の生涯について正しい情報を広めることが自分の役目だと公言している。

 「私が何か特別な能力を持っていると思うなら、がっかりさせることになる」とロランスは言う。「私は普通の女だ。一人になってからは秘書として働いた。子供を育てた。3人の孫がいる。近年、私の人生は精神的に充実しており、新たな意味を持つようになった。ロシアや正教会の歴史を研究し、自分のルーツを知り、ロシアの人々と交流している」。

 彼女は記者の取材に応じたり、学会に参加したりしているが、それでも人に避けられるという。「友人の中にはこう言う人もいる。『いいかい、ロランス、君のことはとても好きだけれど、私は自分の家族に君のことを紹介できない』と。単に私がラスプーチンの子孫だというだけで」。

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