ソ連で活躍した女性政治家5選

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ゲオルギー・マナエフ
 ソ連では、香水産業や文化、保健分野で主導的な地位に就いた女性はいたが、政権中枢に近づいた者はいなかった。

 エカテリーナ2世はロシア帝国を統治した最後の女帝で、以後ツァーリの下で活躍した女性政治家はほとんどいなかった。1917年以前のドゥーマ(ロシア議会)にも女性はいなかった。参政権がなかったからだ。

 ボリシェヴィキが政権を取ると、女性は男性と平等の選挙権を得た。しかし、依然としてソビエト政権の中枢の役職に就く女性は多くなかった。例えば1937年、第1回ソビエト連邦最高会議(議員数1143名)において女性の数は225名で、全体の17パーセントにすぎなかった。ソ連時代を通して最高の数字は1984年のソ連最高会議の33パーセントだった。しかも、ソ連最高会議はソ連の真の統治機構ではなかった。実質的に政権運営を行っていたのは共産党執行委員会の政治局で、ここに女性はいなかった。女性政治家の中で最高位に就いたのはエレーナ・スタソワだが、それもソビエト国家誕生から間もない頃のことだった。

 

1. エレーナ・スタソワ、中央委員会書記

 エレーナ・スタソワ(1873年-1966年)は貴族の生まれで、優れた教育を受けたが、彼女自身はそれが大衆の重労働によって支えられていたと考えていた。「我々インテリゲンツィアのあのような暮らしを可能にしてくれていた人民、労働者、農民に対する私の義務感はますます強くなっていった」とスタソワは記している。

 スタソワはプロパガンダを指揮し、(レーニンと共同で)スイス、フィンランド、コーカサス、ロシア全土で活動した。1913年から1916年まで彼女は亡命生活を送り、「アプソリュート」(「絶対」)という地下活動用の通り名を使用していた。妥協のない人物で、共産主義の未来の建設に身を捧げていた。

 新国家誕生から間もない頃、スタソワは共産党中央委員会書記(1919年-1920年)を務めた。これはソビエト国家で女性が到達した最高位である。1920年以後、スタソワは他の要職を歴任し、1946年に公式に引退するまで精力的に社会に関わり続けた。エレーナ・スタソワは93歳の天寿を全うし、1966年にモスクワでその生涯を終えた。

 

2. ポリーナ・ジェムチュジナ、ソ連香水産業の指導者 

 ポリーナ・ジェムチュジナ(旧姓カルポフスカヤ。1897年-1970年)は、ソビエト時代初期のプロパガンダ指揮者であり、1921年にすでに高位の職に就いていたヴャチェスラフ・モロトフと結婚した。当時モロトフはウクライナ共産党中央委員会第一書記だった。さらにジェムチュジナは、スターリンの2番目の妻、ナジェジダ・アリルーエワ(1901年-1932年)とも大変親しくなった。 

 1920年代末以降ジェムチュジナは出世階段を駆け上り、ソ連香水産業の指導者となることを選んだ。一方夫のモロトフはソ連の「副首相」に相当する人民委員会議議長になった。

 1930年から1932年まで、ジェムチュジナは有名な香水工場「ノーヴァヤ・ザリャー」の長を務め、1936年には香水化粧品合成繊維石鹸製造産業総管理局の長に、1939年には漁業人民委員部の長になった。しかし、ジェムチュジナは10ヶ月しかこの役職に留まることができず、間もなく降格させられた。 

 1949年、ジェムチュジナは共産党から追放された。ユダヤ人と新生イスラエルを公に支持したことが原因だったらしい(ジェムチュジナはユダヤ系だった)。モロトフは妻を弾圧から救うことができなかった。ジェムチュジナの兄弟姉妹は拘束され、後に獄死した。1949年、ポリーナ・ジェムチュジナは5年間の流刑の判決を受けた。彼女は1953年に釈放されて政治家としての名誉を回復し、スターリンの死後は70歳で世を去るまでモスクワで暮らした。

 

3. マリア・コヴリギナ、ソ連保健大臣 

 マリア・コヴリギナ(1910年-1995年)はロシアの農家に生まれた。彼女の出世の秘訣はその自己PRの上手さにあった。1924年、14歳の彼女はコムソモール(全連邦レーニン共産主義青年同盟――共産党の青年組織)の一員となり、17歳までに自身の村のコムソモール支部の書記となった。

 コヴリギナは医学の教育を受けてロシアのチェリャビンスクで働き、チェリャビンスク州委員会の教育保健部の指導者となった。第二次世界大戦中、彼女は避難民(包囲下のレニングラードから逃げた子供を含む)の収容と治療を担当した。チェリャビンスクが拠点だったが、彼女は「レニングラード防衛」を讃えられてメダルを受章した。1942年、コヴリギナはソ連保健省の副大臣に任命され、1950年から1959年まで同省大臣を務めた。 

 大臣時代の彼女の最大の貢献は、1955年のソビエト連邦最高会議指令でソ連の中絶を合法化したことだった(中絶は1936年に禁止されていた)。その他、コヴリギナは3人以上の子を持つ母親に対する経済支援を導入し、公的な育児休暇を112日に延長した。コヴリギナはソ連の若い母親たちを大いに助けた。1959年に大臣職を辞すると、コヴリギナは中央医師研修大学の学長となった。彼女はモスクワで84年の生涯に幕を閉じた。

 

4. エカテリーナ・フルツェワ、中央委員会書記 

 ソ連では、エカテリーナ・フルツェワは文化省大臣として有名だった。しかし、彼女はその地位に降格させられたのであり、彼女自身はこれを左遷と捉えていた。

 エカテリーナ・フルツェワ(1910年-1974年)の初期の経歴はマリア・コヴリギナのそれによく似ている。フルツェワも一般の労働者家庭に生まれた。母親のマロリョーナ・フルツェワは文盲だった。14歳の頃にコムソモールに入ったが、20歳までに共産党員となり、クリミアのフェオドシア市コムソモール委員会の書記となった。

 フルツェワは怒涛の速さで昇進を続け、1935年までにコムソモール中央委員会の委員になった。だが彼女の私生活は波乱に満ちていた。1942年、彼女の最初の夫であった空軍パイロットのピョートル・ビトコフが別の女性を見つけてエカテリーナと赤ん坊の元を去り、フルツェワ自身も仕事に忙殺されていた。戦時中、彼女は党の役人として、モスクワ市民の避難作戦にも参加した。

 努力は報われた。1940年代、フルツェワはモスクワ共産党中央委員会の書記であったニキータ・フルシチョフと親しくなった。1953年にフルシチョフが国の指導者となると、フルツェワはまず彼が前任した役職を継ぎ、それからソ連共産党中央委員会の書記の一人となった。国家レベルの決定はすべてここで承認されていた。つまり、フルツェワはかつてのエレーナ・スタソワと同等の高い地位に就いたということだ。

 1950年代末、党内の陰謀の結果、フルツェワは中央委員会から追放され、1960年には文化省大臣に降格させられた。このことを知ったフルツェワは手首を切って自殺を図ったが、生還した。文化省大臣としての彼女の政策は賛否両論を呼んだ。外国のロックバンドのレコードをソ連で販売することを禁止した一方で、芸術展覧会をいくつも企画し、数多くの劇場の建設を推し進め、ロシア・バレエを売り込んだ。エカテリーナ・フルツェワは1974年に死去するまで文化省大臣の職を務め続けた。

 

5. ライサ・ゴルバチョワ、最初の「ファーストレディー」 

 国家の役人ではなかったが、ライサ・ゴルバチョワ(1932年-1999年)は、ソ連最後の総書記、ミハイル・ゴルバチョフ(1931年-)の妻として、ソ連政治に大きな影響を与えた。彼女はソ連初の「ファーストレディー」となった。 

 スターリンやフルシチョフ、ブレジネフといったソ連指導者らの妻たちは、まるでモスクワ・ツァーリ国の皇后のごとく、公の場で夫と一緒にいる姿を見せることがほとんどなかった(ソ連に来る外国高官の妻たちには、ふつう初の女性宇宙飛行士、ワレンチナ・テレシコワが同伴した)。ライサ・ゴルバチョワは対照的だった。夫が最高位に就く以前、彼女は哲学の教師だったが、総書記の妻となってからは、彼女は夫の公務出張に同行し、もちろん外遊にも出かけた。 

 1984年、ゴルバチョフがマーガレット・サッチャー首相と会談するため英国を訪れた際も夫に同伴し、ミハイルと違って英語に堪能だった彼女は、夫とサッチャーの意思疎通を助けた。1987年にゴルバチョフが米国を訪れた際も、彼女が夫とナンシー・レーガンの橋渡し役となった。ライサは外国の高官がソ連を訪れる際も常に居合わせた。

 ライサは常にミハイルに連れ添い、テレビにも出演した。彼女の服、コート、メイクはすべてのソビエト女性の羨望の的だったが、そこには妬みも混ざっていた。1980年代、ソ連は深刻な経済危機を経験していたからだ。しかし、ゴルバチョワは高価な服は買ったことがないと話している。「大別邸や別荘、贅沢な服、宝石に並々ならぬ情熱を燃やしたという神話がたくさんあるが、私はメディアが報じたようにイヴサンローランで服を注文したことはない」とライサは言う。「私はクズネツキー・モストの仕立て屋に服を作ってもらっていた」。

 ライサ・ゴルバチョワは慈善活動もたくさん行い、ロシアの文化財の保護を支援した。彼女はソ連文化基金の創設を主導し、博物館や図書館を支え、修復計画に財政支援を行った。また、慈善基金「チェルノブイリの子供」の主導者でもあった。ゴルバチョワはソ連崩壊後も夫に寄り添い、社会活動や慈善活動を続けた。彼女は1999年に白血病のため67歳で世を去った。