ロシアのドラマ「メソッド」の殺人鬼たちは実在した

Yuri Bykov, Alexander Voitinsky/ Wednesday production company, 2015
 ネットフリックスで視聴できるロシアのドラマ「メソッド」(Метод)の殺人鬼たちのモデルとなったのは、実在の猟奇殺人犯たちだった。中にはドラマで描かれているよりもずっと凶悪な者もいた。

注意:以下の文章には不快な表現が含まれる。暴力的な場面の描写で気分が悪くなった場合は、シベリアの猫たちがエルミタージュ美術館を救った話をどうぞ

リペツクの絞殺犯―アナトーリー・セドィフ

 第2話で主人公のロジオン・メグリンは相棒の法学部卒業生エセニア・ステクロワとともにリペツク(モスクワから468キロメートル)に向かう。若い女性を絞殺してきた殺人鬼を捕まえるためだ。捜査官は犯人が学校時代に同級生の女子らに対して募らせた恨みを晴らすために犯行を繰り返しているのだと突き止める。

 リペツクの絞殺犯のモデルは、12人の女性を殺害した実在の猟奇殺人犯、アナトーリー・セドィフだ。アナトーリーは妻と2人の子を持つ感じの良い男で、市の文化局で運転手をしていた。

 彼が最初の殺人を犯したのは1998年だった。9月11日、郊外にピクニックにやって来た団体が服を脱がされた女性の絞殺体を発見した。1999年、猟奇殺人犯はさらに7人の女性を絞殺した。

 犯人はVAZ-2106に乗って街の中心部で夜ごとに標的を探していた。ヒッチハイクをする女性を狙って車に乗せ、郊外へ連れ出して暴行を加え、その後衣服で絞殺していた。

 捜査班の疑いは何度かセドィフに向けられたが、証拠不十分で逮捕には至らなかった。彼の友人らもまた、彼が殺人犯であるはずがないと主張していた。犯人が捕まったのは2008年のことだ。彼の息子が偶然被害者の一人の携帯電話の電源を入れ、捜査官らが信号を追跡してまず息子を、次いで家の主を見つけ出した。

 「彼[セドィフ――編集部註]は自分が老いた病人で、腕も曲がらず、誰かを絞殺できるはずがないと話した。だが分子遺伝学的鑑定の結果を突き付けられると、否認は無駄だと悟ったのか、今度は自分に双子の兄弟がいると言い出した。とにかく、でたらめばかり言っていた」と事件の捜査に関わったリペツク州刑事捜査局の元部長、アンドレイ・アケリエフは振り返る

 捜査の過程で、セドィフには数人の愛人がいたことが分かった。その一人によれば、アナトーリーは異常な性癖があり、女性を絞め殺しかけたこともあったという。彼自身は、学校時代に太っていたせいで女子生徒らとうまく付き合えなかったと供述している。捜査官らは、彼が犯行を重ねることで学校時代の鬱憤を晴らし、自己承認欲求を満たそうとしたのだと推察した。

 2010年4月、リペツク州の裁判所は12件の殺人と9件の強姦についてアナトーリー・セドィフを有罪とし、終身刑を言い渡した。セドィフは現在も刑務所に服役している。

猟奇タクシー運転手――ゲンナージー・ミハセーヴィチ

 8話では、捜査官らが異なる時期に野原で9人の女性の刺殺体を発見する。彼女らを殺害したのは、若い頃のトラウマを抱える地元のタクシー運転手だった。かつて犯人は、兵役中に恋人が他の男と付き合い始めたことを知って首を吊ろうとしたが、結局愛人の女性を殺した。その後他の女性と結婚してタクシー運転手の職を得たが、客の女性に暴行を加えてスクリュードライバーで刺殺するという犯行を続けた。また彼は、彼女らの持つ貴重品を盗んで妻に贈っていたが、妻は事実を知る由もなかった。

 この話は、ヴィテプスク(ベラルーシの街)とその周辺で女性らを殺害したゲンナージー・ミハセーヴィチの生涯をほぼ忠実に再現している。ゲンナージーは1947年に生まれた。父親は酒癖が悪く、妻によく暴力を振るっていた。ゲンナージーは学校でいじめを受け、卒業後は兵役に就くが、期間が満了する前に肝炎が見つかって除隊となった。

 1971年、ゲンナージーは恋人に裏切られたことを知って首吊り自殺を試みるが、考え直し、代わりに誰かを殺すことにした。

 「果樹園のそばを通っていた時、女性に出会った。彼女を見て、初めて絞殺しようという考えが浮かんだ。なぜ私が女のために破滅しなければならないのか。自分で誰かを絞め殺すほうが良い」と彼は1971年5月14日の最初の犯行の後の考えを説明している

 何度か犯行を重ねた殺人鬼は、1981年に赤い「ザポロージェツ」車を手に入れ、路上に一人でいる女性を探し、郊外に連れ出し、暴行して絞殺するようになった。ゲンナージーは何度か自分の妻も絞め殺しそうになったが自制したと認めている。

 1971年から1985年まで、ヴィテプスクの殺人鬼は43件の殺人事件を起こしたが、捜査班が犯行を証明できたのは36件だけだった。ミハセーヴィチは死刑判決を受け、1987年に銃殺された。処刑当日、猟奇殺人犯は「どのみちそうしただろう」と語った

殺人医師―ワシーリー・クリーク

 第9話では、街の病院で医者として働く殺人鬼が少女や老女を殺害する。老女は眠らせて風呂で溺死させ、少女は絞殺していた。明らかになったのは、彼が夢遊病者で、それを理由に母親は彼につらく当たり、彼が好きだった少女と関わることを禁じていたということだ。彼が高齢女性を殺したのは自分の母親に対する復讐であり、少女を狙ったのは子供時代の思い出に登場する「まさにその少女」を見つけるためだった。そして目当ての少女ではないと悟ると、その少女を殺すのだった。

 この犯人のモデルとなったワシーリー・クリークは、1956年にイルクーツク(モスクワから5000キロメートル、バイカル湖畔の街)で生まれ、老女や少女を殺しただけでなく、暴行も加えていた。

 ワシーリーは未熟児で、爪がなく、耳も押しつぶしたような形だったと母親は回想している。幼少期はすべてを与えられ、やがて野良猫の首を吊るという残酷な行為に興味を示すようになる。そして夜な夜な夢遊病にうなされるのだった。学校では、体が弱かったにもかかわらずスポーツに励み、ボクシングでは一度試合中に頭に重傷を負ったものの、市のチャンピオンにもなった。他の殺人鬼とは違い、彼は女子生徒にもてた。卒業後は兵役に就き、その後イルクーツク医科大学の医療学部で6年間学んで地元の救急診療所の医師となった。

 1980年、彼は十代の若者らに激しい暴行を受け、その時に自分が小児性愛者で、かつ老人性愛者であることを悟った

 「(頭部を負傷してから)五、六年は、子供と性行為をしているという性的な考えがしばしば浮かぶようになった。初めは少女だけだったが、それから少年や老女までも浮かぶようになった」とクリークは供述している

 24歳になった年、ワシーリーは9歳の少女に恋をし、彼女に手紙を書いたりおもちゃを送ったりしたが、自分に振り向かせることができなかった。失望した彼は1982年に法律家の女性と結婚して一人の息子をもうけたが、この頃に児童を襲うようになった。2年後の1984年、彼は自分の患者の高齢女性を初めて眠らせて強姦して殺害し、同じ年には9歳の見知らぬ少女を犯して絞殺した。被害者の首を吊ることもあれば斬殺することもあったが、絞殺する場合が多かった。

 彼は1986年まで捕まらなかった。取り調べで彼は、14件の殺人と強姦、強姦未遂を含め、4年間に40件の事件を起こしたことを認めた。クリーク曰く、彼を犯罪に駆り立てたのは女性たちのほうだったという。 

 「私に女性のだらしなさが影響したのだと思う。学校時代にある少女に恋し、彼女と寝たが、その後、彼女には私の他に男が優に10人以上いることが分かった。(…)私には愛人がたくさんおり、ここ最近は20人ほどいた。複数人と同時に付き合っていた。女性にはうんざりだ。彼女らから満足を得ることができなかった」とクリークは供述している

 1988年、長い裁判の後、彼は銃殺刑の判決を受けた。1989年6月26日、ワシーリーは銃殺された。

児童性愛者のピオネール指導員―アナトーリー・スリフコー

 第4話では、主人公らはミハイロフスクという街に向かう。ここでは児童が行方不明になっていた。しかも男児ばかりだ。犯人は児童旅行クラブ「ロマンチク」の指導員だった。彼は子供たちを写真撮影という口実で野原におびき出し、木にロープの輪を掛け、子供たちに首に輪を掛けさせ、椅子を外して彼らが苦しむさまを写真に収めていた。その後子供たちを助け、何をされたか口外しないよう言いつけて逃がし、自分は写真を見て性的興奮を満たすのだった。子供の救出が間に合わなかった場合は、遺体を事件現場の近くに埋め、その場所に木を植えていた。

 「ロマンチク」クラブは実在した。クラブを率いていたのは、1938年にダゲスタンで生まれたアナトーリー・スリフコーだ。彼はロシア社会主義連邦共和国功労教師の称号を有していた。彼は平凡な子供時代を過ごし、卒業後は極東戦線で戦い、化学技術学校を卒業した。その後ネヴィンノムィスク(モスクワから1400キロメートル)に移住し、地元の化学コンビナートで操作員として働く傍ら、学校でピオネール指導員となって子供の遠足を企画した。

 間もなく彼は自分の遠足クラブ「ロマンチク」を作ることを決めた。しかし、クラブを創設する数年前の1961年、スリフコーは13~14歳の少年が死亡した交通事故を目撃し、子供に性的な興味を示すようになっていた。 

 「彼は制服姿で、ネクタイと白いシャツ、新しい黒い長靴を着用していた。血だまりができ、路上にガソリンが流れていた。私に突然、彼をひどく苦しめたいという感情、願望が生まれた。この感情が私に付きまとい、当時住んでいた極東から逃げ出さざるを得なくなった。引っ越した後はこの願望は消えたが、五、六ヶ月でこの欲望が再び現れ、私に付きまとうようになった」とスリフコーは回想している

 1963年、彼は初めてこの事故現場を再現しようとし、地元の小学校5年生にパルチザンの役をするよう頼んで映画の撮影に呼び出した。この口実で少年を木の下に呼び出した彼を痛めつけたが、性行為には及ばなかった。しかしその後首吊りをさせ始め、意識が朦朧とする子供に性的暴行を加えるようになった。正気に返った子供の多くは何も覚えていなかった。

 1966年、彼は自分の旅行クラブを創設し、「モデル」をさせられる子供はずっと増えた。スリフコーに性的・身体的暴行を受けた児童は40人に上り、うち7人が死亡した。暴行を受けた結果身体に障害を負った子供もいた。

 殺人鬼はなかなか見つからなかった。スリフコーは行方不明者の捜索に積極的に協力するふりをしていた。1985年末、検事助手のタマーラ・ラングエワは旅行クラブのメンバー全員に対して聞き込みを始めた。すると一人がスリフコーに縄に吊るされ、その後意識を失ったことを告白した。

 1986年、捜査員らはスリフコーの写真を見つけた。首を吊られた子供たちの写真の多くに彼の姿も写っていた。裁判でスリフコーは罪を認めた。

 アナトーリーは銃殺刑判決を受け、1989年9月16日に死刑が執行された。

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