シャルル・ド・ゴール
第二次大戦中はフランス亡命政府とレジスタンスを率い、大戦後はフランス共和国大統領(1959~1969)となったシャルル・ド・ゴール。その記念碑が、2002年にモスクワのコスモスホテルの前に建立された。除幕式にはプーチン大統領と当時のフランス大統領、ジャック・シラクが立ち会った。
この銅像を制作したのは彫刻家ズラブ・ツェレテリで、モスクワのピョートル大帝の巨像や、ニューヨークの「悲しみの涙」などの作者だが、彼の作品はこれまでも再三、モスクワっ子の批判を浴びてきている。
ド・ゴール将軍像は、高さ10メートルの台座の上に8メートルの巨像が聳えるというもので、除幕式当時から、市民は「こけ脅し」と呼んだ。市民の多くは未だに、これはド・ゴールではなく、1960~70年代にフランスの有名な喜劇俳優ルイ・ド・フュネスが演じた、大ヒット作「憲兵」シリーズの憲兵だと信じている。
カール・マルクス、ホー・チ・ミン、エルンスト・テールマン
現代のロシア社会では、ソ連の共産主義者に対する感情はかなり好悪入り混じったもので、その銅像、記念碑は撤去されている(例えば、ソ連秘密警察の創設者フェリックス・ジェルジンスキーの、旧KGB本部前にあった銅像)。
だが、海外の“同志”の記念碑のほうはもっと幸運だった。とくに、マルクス主義を築いたカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの記念碑はロシアの多数の都市に建てられ、大部分が残っている。
最も有名なマルクス像は、モスクワのボリショイ劇場前の「劇場広場」にあるもので、1961年にレフ・ケルベリが制作した。この巨大な一枚岩からなる巨像のコンセプトは、ソ連の革命家・政治家アナトリー・ルナチャルスキーの言葉、「マルクスは巨岩である」だ。実際、『資本論』の作者は、160トンの灰色の花崗岩のなかから生まれ出ているように見える。
一方、「ベトナムのレーニン」、ベトナム民主共和国の建国の父、ホー・チ・ミンの像は、彼が自分の記念碑を建立してはならぬと遺言したにもかかわらず、1990年にモスクワに建てられた。
ソ連政府がこのような行動に出たのは、ホー・チ・ミンが1923年にソ連に渡り、コミンテルン大会でアジア担当となった経緯があったからである。つまり、彼の民族解放、共産主義国建設の大本はソ連にあるという考えだ。
そこで、モスクワ地下鉄のアカデミーチェスカヤ駅の広場で、花壇をセメントで固め、木を伐り、花崗岩を搬入。記念碑は、巨大な太陽の形をしており、そこにホー・チ・ミンの顔が刻まれている。そして、この円盤の前には、跪いた姿勢から立ち上がろうとしているベトナム人の像が置かれた。
ソ連が崩壊すると、このモニュメントも撤去されるところだったが、モスクワのベトナム大使館がこれに反対した。もっとも、記念碑が残されたにもかかわらず、地元住民のほうは、このベトナム指導者とロシアの間にどんな関係があったかすぐに忘れてしまった。そして、この像にもっと手近な意味をくっつけるようになった。今ではそれは、「空飛ぶ円盤のモニュメント」とか「タタールのくびき300年の記念碑」などと呼ばれている。
だが、第二次大戦末期に強制収容所で非業の死を遂げたドイツ共産党指導者、エルンスト・テールマンのほうは、もっとよく記憶されているようだ。彼の記念碑は、モスクワの同名の広場にそのまま残っている。地下鉄の「アエロポルト」駅の隣だ。
マハトマ・ガンジーとインディラ・ガンジー
世界で最も有名なインド女性、インディラ・ガンジーの銅像を建てようというアイデアは1930年代からあったが、実現したのはようやく1987年のことだ。場所は、モスクワ大学近くのロモノーソフスキー通りの広場。彼女にはモスクワ大学名誉博士の学位も授与されており、ソ連では大変な人気があった。
またその近くに、インド国民から1988年に寄贈されたマハトマ・ガンジー像もある。このインド独立の指導者も、ソ連では人気があり、しかもロシアとは縁があった。ガンジーは文豪レフ・トルストイの著作と思想に感銘を受け、彼と文通し、ロシア革命から刺激を受けている。
マイケル・ジャクソン
ポップの王様の記念碑建立を発案したのは、エカテリンブルク(モスクワの東方1790km)にあるマイケル・ジャクソンのファンクラブだった。「なぜエカテリンブルクかって?ここは、ヨーロッパとアジアの境だからさ。マイケルは世界的な人で、ヨーロッパとアジアの両方で愛されていたからね」。ファンクラブのメンバー、アレクサンドル・オリンピエフさんはこう説明する。
歌手が亡くなった2年後の2011年には、高さが約3メートル、重量500キロのマイケル像が、彼特有のダンスのポーズで、その不朽の姿を現した。
カリーニングラード(旧ケーニヒスベルク)のシラー像
ドイツの詩人、劇作家、思想家のフリードリヒ・フォン・シラーの銅像が、カリーニングラード市(モスクワ西方1259km)にあるが、これはロシア人が建立したものではない。1910年に、同市がケーニヒスベルグの名でドイツに属していた時代に、建てられたものだ。だが、非常な手間がかかることもあり、撤去はされなかった。
まず第一に、この記念碑は、イギリスの大空襲で市の半分が破壊された際も、生き延びた。ソ連兵たちは銅像に、「撃つな!敵じゃないよ!」という札をぶら下げた。こうしてシラーは、1944年の所有者の変更をもサバイバルした。この時、同市は、ソ連占領下に移り、あらゆるドイツの残滓が熱心に取り除かれたのだが。
戦後、シラー像はすんでのところでスクラップになるのを免れた。もう首にはロープが巻き付けられていたのに、市民とKGBが止めに入ったという。もっとも、別の説もあり、シラーはいったん撤去はされたものの、警察のおかげで、モスクワのはるか東方1,700kmのところにある南ウラルのマグニトゴルスク近辺で見つかったとのこと。