1. ポトスタカンニク(ティーカップホルダー)
長距離列車でのお茶の出し方はふつう外国人観光客を魅了する。乗務員が、ロシア語でポトスタカンニクと呼ばれる金属のカップホルダーに入ったグラスに汲まれたお茶を持って来てくれるのだ。
ポトスタカンニクはグラスが割れるのを防ぎ、また飲む人が手を火傷することも防いでくれる。最初のそうしたカップホルダーは1917年以前に現れていたが、ソビエト時代に特に人気を博し、プロパガンダ目的で政府に利用された。
熟練の職人がポトスタカンニクにさまざまな主題を刻み込んだ。ヴラジーミル・レーニンの誕生日やソビエトの諸都市、共産党大会に捧げられた特別仕様のものもあった。
今日ポトスタカンニクに刻まれることがあるのは、例えばモスクワとサンクトペテルブルクを結ぶ有名なクラスナヤ・ストレラ号(赤い矢)のような列車の名前、それからロシア国鉄のロゴ、市章、有名な場所の図像だ。またビジネスでの贈り物用に、会社のロゴが刻まれることもある。
2. チョコレートキャンディー“ミーシカ・ナ・セーヴェレ”
1939年、レニングラード(今日のサンクトペテルブルク)のクルプスカヤ製菓工場がナッツ入りのチョコレートキャンディー“ミーシカ・ナ・セーヴェレ”(北のクマさん)を生産し始めた。レニングラード包囲戦の間も、工場は材料を変えることはあったが、生産はやめなかった。
包装に描かれたシロクマの有名な絵は、芸術家のタチヤナ・ルキヤノヴァがデザインしたもので、2010年まで使用された。それから新しいクマの絵が公表されたが、多くのロシア人には気に入らなかった。そんなわけで、今日では消費者が選べるよう、キャンディーは古い包装と新しい包装で売られている。
3. 香水“クラスナヤ・モスクワ”
伝承によれば、この香水は初めニコライ2世の母、皇后マリヤ・フョードロヴナのために作られた。ソビエト時代には、赤いモスクワは晴れの舞台に用いる香水として大いに人気を博した。
“エレガンス”というのが、かつて女性たちがこの強い花の香りを言い表すのに使った言葉だ。すべての女性がこの香水を手に入れられるようになった今も、この香りは豊かで素晴らしいと言う人がいる。今日クラスナヤ・モスクワ(赤いモスクワ)は平均で500ルーブル(およそ970円)ほどだ。
今日若い女性の多くは、この香りが時代遅れできつすぎると考えているが、普段使いのためというより好奇心やノスタルジーから、これを買う人もいる。
4. 砕氷船
ソ連は原子力砕氷船の艦隊を作った世界で唯一の国だった。そうした船の最初のものである「レーニン」は1950年代終わりに進水したが、これは原子力を燃料とする史上初の民間船だった。「レーニン」は北極探検用に設計され、30年の使用年限内に82000海里以上航行した。
他の有名な砕氷船に、「ソビエト連邦」、「ロシア」、「シビーリ」、「ヤマール」、「戦勝50年」がある。最後のものは長らく世界で最大の砕氷船であり、今でも北極を航行している。商業船団を先導するのが「戦勝50年」の重要な役割だが、年に何度か客船を先導することもある。そうした船の乗客はレストランやプール、サウナ、そして図書館まで利用できる。ただし冒険は高く付き、一人あたり24000㌦(約272万円)なり。
ソビエト時代の砕氷船のほとんどが引退したが、数年前ロシア政府は新しい船に投資した。今のところ最大の砕氷船「アルクティカ」は2016年に進水したが、最終的な引き渡しは2019年になる予定。
5. ソビエト版スパークリング・ワイン
ソビエト・スパークリング・ワインの開発の背景には、平均的なソビエト市民でも手に入る高品質のアルコール飲料を作ろうという考えがあった。瓶の中で長期間発酵させてスパークリング・ワインを生産するのは費用がかかりすぎた。したがって、ソ連は独自の方法を開発し、特殊なタンクの中での発酵に切り替えた。これにより生産過程は短縮され、費用も抑えられた。ソビエト・スパークリング・ワインはたちまち人気に火がつき、新年のお祝いや結婚式、その他の特別な機会に欠かせない名物となった。
ソ連が崩壊してからも、地方で作られるスパークリング・ワインはロシアで強い人気を保っており、今や輸出もされている。この飲料の正式名称は「ソビエツコエ・シャンパンスコエ」(ソビエト・シャンパン)だが、輸出品はソビエト・スパークリング・ワインと呼ばれている。ロシアは瓶にキリル文字で書かれた“シャンパン”という言葉を残す権利をめぐって長年フランスと係争中だが、未だ最終的な合意には至っていない。
6. 網目の買い物袋
網目の買い物袋を表すロシア語の単語アヴォシカは、直訳すれば“たぶん袋”といったところだろう。アヴォシという言葉は幸運に対する淡い期待を表し、ほとんどの品物が不足していたソ連では、この名前にも完全に道理があった。袋は網状で、中のものは周りの人から丸見え。しかしソビエトの人々はそんなことは気にしなかった。プライバシーの欠如には慣れていたのだ。
1990年代にプラスチック袋が利用できるようになるとアヴォシカの人気は落ちたが、今でも時折通りで見かけることがある。少なくともプラスチック袋より環境に優しく、その意味では遙かに時代を先駆けていた。