拳の代わりに槍で
エカチェリーナ2世以前も、女性同士の決闘が認められていた。1397年の「プスコフ裁判法典」(中世の民法)には、女性が決闘を行える場合について記されていた。
たとえば、債務訴訟の場合、女性原告は、戦士を雇って自分の代わりに戦わせることができた。 しかし、窃盗や情事に関わる事件の被告が女性であれば、二人の女性の戦いは必至だった。戦いは、拳だけでなく、槍や戦闘用の棍棒など、本格的な武器も用いられた。
喧嘩っ早い皇后
女性の決闘の本物の流行は、エカチェリーナ2世の時代に現れた。若い頃、彼女は又従姉妹と剣で戦ったことがある。とはいえ、実際のところ、どちらも死ぬつもりはなかった。だから、二人の興奮はすぐに冷めた。武器を振り回し始めるや、戦いをやめてしまった。
ロシアにやって来ても、エカチェリーナは、自分のスキルを忘れなかった。夫のピョートル3世と口論中に、彼が剣を掴んだことに気づくと、彼女はすぐに自分にも剣を要求した。夫は、妻のこんな断固たる態度を予想もしていなかったから、罵るのをやめた。
という次第で、決闘は法律で禁止されていたものの、女性については例外が設けられた。重要なのは、最初の血が流れるまで戦いが続くということだ。女帝自身はもはや剣を握ることはなかったが、宮廷女官の決闘に際し、介添人を務めた。彼女の治世で、一方の死に終わった戦いは3回のみ。
サロンでの戦い
エカチェリーナに続き、女官たちも決闘に興味を持つようになった。目撃者たちは、手に武器を持った女性の姿ではなく、戦いに身を投じる彼女らのいきり立った様子に衝撃を受けた。時とともに、決闘はソリティアや音楽演奏と同様にエンタメの一つになった。女戦士の戦いは、サロンでも行われた。文学の夕べなどを装ったわけだ。たとえば、1823年、サンクトペテルブルクのヴォストロウホワ夫人のサロンでは約20回の決闘が行われている。
ロシア人女性の気性の激しさは、外国でも発揮された。たとえば、1770年のこと、後にロシア・アカデミー総裁となるエカチェリーナ・ダーシュコワ夫人(彼女は名門貴族のヴォロンツォフ家の出身だ)は、ロンドンでフォクソン公夫人と口論になった。ロシア大使夫人であるプーシキナ伯爵夫人のサロンでの二人の会談は、最初は別段変わったこともなかったが、ある時点で俄然白熱した。売り言葉に買い言葉で、ついにダーシュコワは相手に決闘を申し込んだ。二人は剣を交え、フォクソン公夫人がダーシュコワを負傷させた。
親子二代にわたる決闘
決闘は、当時流行の気晴らしであるだけでなく、ライバルや不倶戴天の敵と戦う手段でもあった。 オリョール県の地主オリガ・ザヴァロワとエカチェリーナ・ポレソワは、長年仲が悪かったが、ついに二人の争いは沸点に達し、1829年夏、きっぱり決着をつけることにした。しかもサーベルでだ。両人の娘と使用人らが決闘に立ち会った。戦いは悲劇に終わった。ザヴァロワは頭に致命的な打撃を受けたが、彼女もポレソワに重傷を負わせ、二人とも死亡した。5年後、娘たちは再度決闘することを決意し、ザヴァロワの娘は、敵手を斬り殺した。