ハワイ諸島にロシアの要塞があったことをご存知ですか?

歴史
ボリス・エゴロフ

 クルーゼンシュテルン提督率いる艦隊がロシア初の世界周航(1803年~1806年)を行った際に、彼らは、太平洋のハワイ諸島の住民と遭遇した。しかし、スループ船の「ナジェージダ」と「ネヴァ」は、島に長逗留はせず、修理と補給を終えるや航海を続けた。

 1815年1月末、ロシア船「ベーリング号」が、ハワイのカウアイ島沖で難破した。カウアイ島の首長カウムアリは、船と高価な積荷を押収した。

 この一件に、ロシアの国策会社「露米会社」が乗り出す。露米会社は、太平洋におけるロシアの権益を代表し、アラスカ(当時はロシア領)とアリューシャン列島を管理していた。ただし、その名称とは裏腹に、同社にアメリカ人はいなかった。

 ロシア・アメリカの主な統治者で、露米会社を率いるアレクサンドル・バラノフ総督の指示により、同社のエゴール・シェッファー男爵(ゲオルク・アントン・シェッファー)がハワイにやって来た。交渉では、数隻の軍艦が彼をバックアップした。

 カウムアリはすぐさま引き下がって積荷を返し、シェッファーに対して自領への定住を許したうえ、ロシア皇帝の保護を求めた。1816~1817年にロシア人は、カウアイ島に石造の、当時の皇后の名にちなんだエリザベス要塞(エリザヴェータ要塞)と2つの土塁を建設した。

 一方、米英両国は、ハワイ諸島へのロシア進出がまったく気に入らなかった。彼らは外交的、経済的手段を駆使してロシア人を圧迫し、さらには地元民をロシア入植地に敵対させた。これは、ロシア守備隊とハワイアンとの武力衝突につながった。

 帝都サンクトペテルブルクが、シェッファーの「冒険」に与して対米関係を損なうことは望まない、と声明すると、米国は一段と圧迫を強めた。こうして早くも1817年にロシア人はハワイを去り、しばらくして諸島は完全に米国の管理下に置かれる。

あわせて読みたい:米国から99キロメートルしか離れていないロシアの村(写真特集)