ソ連共産党の第20回党大会(1956年2月25日)
Alexander Ustinov/The union of Photographers of Russia/russiainphoto.ruソ連史における「雪解け」(оттепель)とは、政治・社会における部分的な自由化と、脱スターリン主義が進められ、スターリン時代の犠牲者の名誉回復がなされ、全体主義体制から緩い独裁体制に移行し、検閲の緩和と、芸術面での一定の自由が見られた事を特徴とする時期である。
「雪解け」の始まりは1956年2月25日、ソ連共産党の第20回党大会でニキータ・フルシチョフが「個人崇拝とその結果について」という報告演説を行った時とされる。この報告の中でフルシチョフはスターリンの個人崇拝と、その治世を多くの点で痛烈に批判した。
フルシチョフの目的は政治システムを改新し、共産党に対する国民の信頼を回復させることだった。ただし、一定の自由が認められたにも関わらず、依然としてソビエト社会における国家の管理はあらゆる面で維持された。
極端な矛盾もまた、「雪解け」の特徴である。世界に対して国を開放し、西側諸国との関係正常化を志向しつつも、1956年にハンガリーで発生した反ソ蜂起は弾圧された。一方では宗教と自由な知的活動が話題となりつつ、1962年のノヴォチェルカスク市では労働者のデモが銃撃され、大規模な反宗教キャンペーンも張られた。
作家イリヤ・エレンブルグ
Public domain政治用語としての「雪解け」は、地方都市に暮らす文化人や労働者のインテリ家庭を描いた、作家イリヤ・エレンブルグの同名小説に由来する。発表されたのは1954年。スターリンの個人崇拝を批判したフルシチョフの第20回党大会での名高い演説より2年前である。
「民族の父」スターリンの死後に執筆にかかり、ソ連に訪れるであろう変化について、慎重に描写した。
「大きな歴史的出来事が、小さな都市に住む人々の生活にどのように反映されるか、描写したかった。溶けだしていく感覚を、私の希望を伝えたかった・・・」と、後にエレンブルグは回想録に書いている。
もっともフルシチョフは、自分の治世が「雪解け」と呼ばれるのを快く思わなかった。雪解けの季節の泥濘を連想させるからだ。しかし引退後、晩年になるとフルシチョフも考えを改め、この名称が適切であると認めた
モスクワ地下鉄の乗客
Igor Gavriilov/Sputnik当局が主導した脱スターリン化と部分的な自由化は、社会のあらゆる側面に影響した。
文学の分野では、検閲が緩和された。人々は、それまで禁止されていたオシップ・マンデリシュタム、コンスタンチン・バリモント、マリーナ・ツヴェターエワの詩や、ミハイル・ブルガーコフの小説『巨匠とマルガリータ』を読めるようになった。1962年には、矯正労働収容所の囚人の日常を描いたアレクサンドル・ソルジェニーツィンの『イワン・デニーソヴィチの一日』が発表された。
若手作家たちの作品がリベラルな雑誌『ノーヴイ・ミール(新世界)』に掲載され、詩が絶大な人気を博した。エヴゲニー・エフトゥシェンコやアンドレイ・ヴォズネセンスキーといった詩人たちの作品を聴こうと、スタジアム一杯の観客が詰めかけた。
「雪解け」の時期のソ連人は、多くの外国文学(エーリヒ・マリア・レマルク、アーネスト・ヘミングウェイなど)を読めるようになり、外国の音楽を聴く機会も増えた。1962年には、アメリアのベニー・グッドマン率いるジャズ・オーケストラがソ連公演し、大盛況となった。
映画の世界では、偉大な政治指導者や熱血革命家の物語に代わり、市井の人々が抱える問題や希望が描かれるようになった。ゲオルギー・ダネリヤ監督作品『僕はモスクワを歩く』(1963年)の登場人物たちは何ら英雄的な活躍をするでもなく、ただ、モスクワを散策する。
建築分野では、円柱やレリーフを備えた豪華なスターリン・アンピール様式に代わって、標準化された5階建て集合住宅の建設が進んだ。フルシチョフが落胆する建築家たちに告げたように、「人々は住宅を必要としている。シルエットを鑑賞したいのではなく、家に住みたいのだ!」
ソ連の詩人:ブラート・オクジャワ、アンドレイ・ヴォズネセンスキー、ロベルト・ロジェストヴェンスキー、エフゲニー・エフトゥシェンコ
Dmitry Baltermants/МАММ/MDF/russiainphoto.ru社会の根本的な変化に伴い、ソ連の新しい知識人の世代が出現した。彼らを「60年代人(шестидесятники)」と呼ぶ。彼らはヒューマニズムと創造の自由、自己表現の自由、私的な生活の権利を信奉した。
「60年代人」は画家、俳優、詩人、作家、音楽家など、幅広い分野にまたがる。誰かの家に集って会合を開き、文化や国家の問題、人生の意味などを、時には夜通し論じ合った。
彼らの中にはソビエト体制に反抗して異論派に与した者もいたが、「60年代人」の多くは共産主義の理想を信じていた。その理想を、穏健な民主的改革を通じて実現しようと考えていた。
「プラハの春」
Yuri Abramochkin/Sputnik当局は決して「雪解け」の完全な進行を容認せず、社会的プロセスに対しては常に一定の管理体制を維持し続けた。反ソ連的なジョークは罪に問われる可能性もあった。
「ソ連指導部も私自身も、『雪解け』を迎える決意をし、意図的にその選択を行いつつも、同時に懸念も感じていた。雪解けが洪水に発展して我々を飲み込み、対処が困難になってしまわないか・・・指導部の観点から不都合な感情を抑えるという、従来の国家運営の手法を喪失することを恐れた」 と、フルシチョフは主張している。
1964年にレオニード・ブレジネフが権力を掌握すると、異論派に対する弾圧と、検閲の強化が始まった。1965年に若手詩人たちが結成した組織「SMOG」(「勇気」、「思考」、「形象」、「深遠」のそれぞれ頭文字)は、わずか1年間ほどしか活動できなかった。国家機関による監督を拒否すると、SMOGはたちまち解散させられ、リーダーのレオニード・グバノフは治療のためと称して精神病院に強制入院させられた。
「雪解け」の完全な終焉は、1968年にチェコスロバキアで起きた自由化運動「プラハの春」の鎮圧に関連しているとされる。多くの「60年代人」はチェコスロバキアの人々を支持し、その結果弾圧され、その後は異論派に合流せざるを得なくなる。ソ連はいわゆる「停滞の時代」に入っていった。
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