脱スターリン化から宇宙開発まで:「雪解け」の時代を振り返る(写真特集)

AP
 独裁者ヨシフ・スターリンの死後、ソ連は、ある程度の自由化の時代に、いわゆる「雪解け」の時期に入った。検閲が緩和され、粛清の犠牲者が多数、名誉回復された。これは、過酷なスターリン時代の後に訪れたひとつの解放だったが…。
  1. ソ連軍が朝鮮戦争に関与
アメリカ空軍のF-86戦闘機による攻撃を受けているMiG-15。朝鮮半島、1952〜1953年

 ソ連は積極的にしかし非公式に、北朝鮮とその南の隣国の戦争で、北朝鮮を支持した。武器と装備の供給に加えて、ソ連は、軍事専門家とパイロットを派遣し、北朝鮮の戦略拠点を敵の空軍から守った。

 

  1. ソ連がオリンピックに初参加
ソビエト連邦選手たち、1952年ヘルシンキオリンピック

 1952年、史上初めてソ連はオリンピックに参加した。第15回夏季オリンピック・ヘルシンキ大会で、ソ連選手は、71個のメダル(金22個、銀30個、銅19個)を獲得。非公式のチーム・ランキングで、ソ連はアメリカに次ぎ、2位となった。

 

  1. スターリンの死
スターリンの葬儀。米国大使館のバルコニーから撮った写真

 スターリンは、1953年3月5日に死去。その葬儀には数万人が出席した。しかし、押し寄せた人込みのなかで数百人が圧死した。死者の正確な数字は依然極秘扱いだ。

 

  1. 秘密警察KGBの設立

 1954年、かの有名な「ソ連国家保安委員会」が設立された。「共産党の剣と盾」だ。略語のKGBにより、このソ連の秘密警察は世界的に知られるようになった。ロシアと言えばKGBという連想は、ソ連の終焉まで続いた。

 

  1. ソ連初の原発
オブニンスク原子力発電所

 1954年、ソ連初の原子力発電所が、モスクワの南西約100キロに位置するオブニンスク市で稼働し始めた。これは、既存の商用電力網につながれた世界初の原発でもあった。

 

  1. ニキータ・フルシチョフのトウモロコシ・キャンペーン
ニキータ・フルシチョフがスタヴロポリ地方の集団農場(コルホーズ)を訪問。1958年

 1950年代半ば、ソ連の指導者、ニキータ・フルシチョフは、ソ連で大々的なトウモロコシ・キャンペーンを始めた。トウモロコシが大量に収穫されることで、家畜の飼料不足の問題が解決されると思われていた。こうして、気候や適性に注意を払わずに、トウモロコシが至る所に植えられた――伝統的に小麦とライ麦が植えられていた畑にさえも。ソ連のトウモロコシ・キャンペーンの結果は、肉、牛乳、さらにパンの不足を招いて終わった。

 

  1. ワルシャワ条約機構の創設

 1955年にドイツ連邦共和国(西ドイツ)がNATOに加盟したが、これは、ポツダム協定に直接違反するものだった。同協定によれば、ドイツは武装解除されたままであるべきだったから。しかし5月9日、西ドイツは正式にNATO加盟国となり、そのわずか5日後の5月14日、社会主義諸国は、一般にワルシャワ条約として知られる「友好、協力及び相互援助条約」に調印する。こうして「ソ連版NATO」が生まれた。

 

  1. 脱スターリン化とフルシチョフの「雪解け」
ソ連共産党第20回大会におけるニキータ・フルシチョフの演説

 ソ連の指導者、ニキータ・フルシチョフは、ソ連共産党第20回大会での演説の中で、ヨシフ・スターリンの個人崇拝と独裁を非難した。これはソ連史の転換点となった。ソ連は、政治的、社会的、文化的生活の一部自由化、検閲の緩和、強制収容所の囚人の名誉回復と釈放、そして西側との平和共存に向けて、舵を切った。いわゆるフルシチョフの「雪解け」が始まった。

 

  1. ハンガリー動乱
ソ連戦車がブダペストを退出する。

 1956年、ハンガリーで大規模な反ソビエト蜂起が始まった。ハンガリー動乱だ。西側の情報機関が支援していた。11月1日、ハンガリーの新政府は、ワルシャワ条約からの脱退を宣言した。だが、ソ連とハンガリーの軍隊と治安機関は直ちに反応し、ブダペストの抵抗をすべて鎮圧して、ハンガリーを社会主義国の同盟に引き戻した。

 

  1. 世界青年学生祭典がモスクワで開催
イワン・シャギン

 1957年にモスクワで、世界青年学生祭典が開催され、131か国から3万4千人が参加した。夏の2週間、モスクワで、数え切れないほどのコンサートやショー、映画上映、美術展、科学・文化のセミナー、講演会、会議、知的なコンテスト、スポーツ競技等々が行われた。また、この祭典は、ソ連市民にジーンズとロックンロールを紹介した。

 

  1. 世界初の人工衛星

 1957年10月4日、ソ連は宇宙探査の時代を開いた。世界初の人工衛星は、楕円形を描く低地球軌道に打ち上げられた。スプートニク1号――人工衛星はこう名付けられていた――の92日間の飛行により、科学者は大気の上層の密度を研究できるようになった。これは以前は不可能だったことだ。

 

  1. 詩人ボリス・パステルナークをめぐる事件

 部分的な自由化にもかかわらず、ソ連当局は自由を「過剰に」与えるつもりはさらさらなかった。ボリス・パステルナークの事件はその好例だ。1957年、ロシア革命を背景とした長編小説『ドクトル・ジバゴ』を出版しようとしたとき、パステルナークは、組織的な誹謗中傷にさらされた。しかし、小説は西側で出版されて大歓迎され、1958年に著者はノーベル文学賞を受賞した。授賞式に出ることはできなかったが。  

 

  1. ソ連指導者の初の訪米

 1959年9月15日、史上初めて、ソ連の指導者が米国の土を踏んだ。2週間の訪問期間中に、ニキータ・フルシチョフは、ニューヨーク、ロサンゼルス、ワシントン、ピッツバーグ、サンフランシスコを目にした。5千人以上のジャーナリストが彼の訪米について報じた。この数は当時の新記録だ。

 

  1. スティリャーガ

 スティリャーガとは、アメリカのライフスタイルに憧れたソ連版ヒップスターだ。ソ連のダンディー、ビートニクス、テディボーイであり、ソ連初のカウンターカルチャー集団と言えよう。ノンポリで、米国のファッションに憧れ、外国ブランドを着て、欧米の音楽に夢中だった。

 ソ連社会は、スティリャーガに厳しい態度をとった。彼らは批判を浴び、嘲笑され、警察にしばしばしょっ引かれた。

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