カラーポストカード、1896年。
Public domain記念碑的な大聖堂を建立するアイデアは、「ボロジノの戦い」に参加したピョートル・キキン少将によって提案された。皇帝アレクサンドル1世はこれを承認し、1812年12月25日、救世主キリストの名においてモスクワに教会を建立するとの勅令を発した。ちなみに、帝政時代のロシアではこの日、クリスマスだけでなく、「教会とロシア国家が、ガリア人と二十の言語を話す者たちの侵略から解放されたことを記念する」祝日も祝っていた。
教会・聖堂を神に「奉納」する伝統(すなわち、勝利を記念し、神に感謝し、死者を追悼する慣わし)は、古代からロシアにあった。たとえば、イワン雷帝(4世)は、カザン征服を記念して、「赤の広場」に「聖ワシリイ大聖堂」を建てた。また、同じく「赤の広場」のカザン大聖堂は、1612年のモスクワの戦いにおけるポーランド・リトアニア軍に対する勝利を記念して建立。女帝エリザヴェータ・ペトローヴナは、「主の変容大聖堂」の建立を命じた。「変容」はロシア語で「プレオブラジェーニエ」といい、これにちなんだ近衛部隊「プレオブラジェンスキー連隊」が彼女のクーデターと即位を助けた。クロンシュタットの「海の聖ニコライ大聖堂」は、戦死した水兵を追悼する。
当時の高名な建築家が聖堂の設計コンペに参加した。アンドレイ・ヴォロニヒン、アレクセイ・メーリニコフ、ワシリー・スターソフなど。しかし、アレクサンドル1世は、画家アレクサンドル・ヴィートベルグを選び、そのプロジェクトについて、「あなたは石に言葉を語らせた」と言った。
アレクサンドル・ヴィートベルグのプロジェクト、1817年。
Public domain死者の霊廟、鹵獲した武器を展示した柱廊、多くの軍人の彫像を備えた、高さ240㍍の巨大な大聖堂。それが、雀が丘に建設される計画だった。この場所が選ばれたのは偶然ではなかった。聖堂は、スモレンスク街道とカルーガ街道の間に位置するからだ。前者を通ってフランス軍はモスクワに入り、ロシア軍は、モスクワ放棄後に、リャザン街道を経由して後者、つまりカルーガ街道に移動した。建設は1817年に始まったが、その後問題が生じ、7年後に工事は凍結された。
アレクサンドル1世の実弟で、次代の皇帝となったニコライ1世は、新たにコンペを行うと布告。1831年に、コンスタンチン・トーンのロシア・ビザンチン様式のプロジェクトが採用された。彼は、大クレムリン宮殿の設計者だ。こうして、クレムリン近くのチェルトリエ地区に救世主キリスト大聖堂を建設することが決まった。しかし、そのためには、ここにあったアレクセーエフスキー修道院と諸聖人教会を撤去する必要があった。
大聖堂の内装、1883年。
Public domain大聖堂は、一般の寄付により、44年の歳月をかけて建設された。アレクサンドル2世の治世にはすでに完成していたが、成聖(聖別)の儀式が行われたのは、アレクサンドル3世の戴冠後の1883年だ。
ロシア革命後も、聖堂はしばらく活動を続けたが、1931年夏、この場所に巨大な「ソビエト宮殿」を建設することが決定された。高さ415㍍のこの摩天楼では、天辺にレーニンの巨像を戴き、ソ連最高会議、党大会、デモなどが開催される予定だった。そして、1931年12月、その周辺地区、オストージェンカ、ヴォルホンカ、プレチステンカは、大聖堂を破壊する凄まじい爆発で震撼した。
1931年12月5日、聖堂は強力な爆薬で2度にわたり爆破
TASSその残骸はさらに1年半かけて解体されたが、それでも、いくつかの遺物や芸術作品は保存された。ところが、ソビエト宮殿の計画は実現することはなく、第二次世界大戦が始まった。
クレムリンに近いこの敷地は長い間空き地のままだった。1960年になって、破壊された聖堂の跡地に、モスクワの屋外プールが建設され、1994年まで運営されていた。
破壊された聖堂の跡地に建設されたモスクワの屋外プール
Ivan Denisenko/Sputnikペレストロイカ期の1980年代末になって、大聖堂再建の話がもちあがった。しかし、それよりはるか前に大聖堂について言及した最初の人々のなかに、ユーリー・ガガーリンがいた。人類初の有人宇宙飛行を成し遂げた人物だ。
1965年、共産党の青年団「コムソモール」の中央委員会総会で、彼は、ソ連では重要な記念物が保存されていないと述べた。
「モスクワでは、1812年の凱旋門は、撤去されたまま修復されず、救世主キリスト大聖堂は、破壊された。ナポレオンに対する勝利を記念して、国中から集められた寄付で建立されたというのに…。過去の記憶に対する野蛮さの犠牲は、さらにその例を挙げることができる。残念ながら、そうした例は多数ある」
大聖堂のファサードには、聖書とロシアの歴史に題材をとった場面や、聖人像など48のレリーフがあった。聖人は、1812年の祖国戦争時に合戦が行われた日を記念日とする聖人たちである。原型となったオリジナルのものは、幾つかの場面と個別の作品が、モスクワのドンスコイ修道院に長年保存され続けている。
Valery Shustov/Sputnik再建された救世主キリスト大聖堂は、1999年12月31日に信者に公開された。5年の歳月をかけて、建築家と画家が、その外観と内装を注意深く復元した。ファサードは、以前と同じく、『聖書』とロシア史から題材をとった48枚の高浮き彫り、そして、1812年の「祖国戦争」の数々の戦いの日にその記念日が合致する聖人たちの像で飾られている。
1996年1月15日
Igor Zotin/TASS聖堂の下部の回廊には、やはり元の聖堂と同様に、「祖国戦争」の英雄の名前が記されたプレートがある。「至聖所」には、保存されたティーホン総主教(1989年に列聖)の玉座が置かれている。
大聖堂の内装
Legion Media救世主キリスト大聖堂は、ロシア正教会モスクワ総主教直轄の首座聖堂だ。ロシア最大の聖堂である(1万人を収容できる)。また、聖堂としては、ロシアで最も高い(高さは103㍍)。
この聖堂には、洗礼者ヨハネと、救国の英雄アレクサンドル・ネフスキーの聖骸、聖十字架の釘、キリストの聖衣の一部、聖母マリアの聖衣の一部が保管されている。
救世主変容教会の下部には、元の聖堂から唯一残った、エヴグラフ・ソローキン作のイコン『自印聖像』がある(*キリストが、奇蹟により布に自身の顔の像を写した伝えられる正教会のイコンで、「手にて描かれざるイコン」とも呼ばれる)。
イコン「救世主自印聖像」
Public domainまた、「至聖所」には、やはり1930年代の破壊を免れた、画家ワシリー・ヴェレシチャーギンの絵画『この人を見よ』、『十字架を担うキリスト』、『ゲツセマネの祈り』、『十字架降架』、『磔刑』、『埋葬』もある。
厳密に言うと、救世主キリスト大聖堂には展望台が複数ある。そのうち4つが鐘楼間に、高さ40㍍のところにある。屋根付きの回廊からはモスクワのすばらしい景色を眺めることができる。大聖堂の開館時間内であれば展望台に行くことができる。チケット売り場でチケットを購入すればOKだ。
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