冷戦中、ソ連とアメリカの潜水艦はしばしば遭遇し、実際に衝突した。それは、世界の海洋に深く潜航し互いに追跡しているときにも、仮想敵国の海岸へ大胆な偵察を行うときにも起きた。しかし、幸いなことに、これらの事件では死傷者は出なかった。
1969年11月15日、米国の原子力潜水艦SSN-615「ガトー」は、バレンツ海のソ連領海において、水深60メートルで最新の無線傍受装置の試験を行っていた。すると意外にも、ソ連海軍初の、潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)を装備した原潜K-19が「突っ込んできた」。
両艦にとってこの衝突は、青天の霹靂だったが、ガトーの魚雷室の指揮官は、ロシア側が意図的に体当たりして発射の準備をしたと信じていた。攻撃命令は、ガトーの艦長によって土壇場で取り消された。
両艦は深刻な損傷を受けたが、基地に帰り着くことができた。ソ連の専門家が後に証明したように、K-19 の速度が もう2~3ノット速ければ、米艦を真っ二つにしていただろう。
「いたちごっこ」は、冷戦時代の水中対決の典型だった。弾道ミサイルを積んだソ連の潜水艦が長旅をするときは、たいてい米国の「ハンター」がその船尾にくっついて追跡していた。
発見されないように、米艦は、ソ連艦をぴったり追尾していた。艦の間近では、スクリューの騒音のせいで、ソ連のソナーは探知できなかった。
ソ連の潜水艦は時折、「死角」を「照らし出す」必要があった。そこで彼らは、急激に針路を変える操船をして、艦を左右に120~150度急旋回させた。米国人はこうした操船を「クレイジー・イワン」と呼んでいた。
1970年6月20日に北極海で、ソ連の675型潜水艦(エコー2型原子力潜水艦)が「クレイジー・イワン」を行うと、追尾していた米国のUSS Tautog SSN-639が衝突した。
ソ連艦は急速に沈み始めたが、乗組員は状況を制御することができた。タグボートが急行し、右側のスクリューが故障したこの艦を基地に曳航した。米艦は、司令塔に被害を被ったが、死傷者を出すことなく無事に基地に戻った。
1981 年 5 月 23 日、ソ連の原潜 K-211「ペトロパブロフスク・カムチャツキー」は、バレンツ海の演習海域から基地に戻りつつあった。
「死角」に「招かれざる客」がいないか確かめる操船をやった直後のこと、ソ連艦は、下を航行する潜水艦から、下方から船尾に向けて滑るような、強烈な打撃を3回受けた。
K-211は軽微な損傷を被って浮上し、自力で基地に辿り着いた。外部の検査で、この原潜のスクリューから未知の潜水艦の金属片が見つかった。
ソ連の原潜の追跡者はおそらく米原潜 SSN-637「スタージョン」 だった。英国の原潜「スウィフトシュア級」だという説もある。いずれにせよ、「狩人」にとっても事件は無事に終わった。
冷戦と両超大国のグローバルな対立が終わっても、水中での「いたちごっこ」は止まなかった。ロシアの原潜を米原潜はこっそり追いかけ、ロシアの海岸に出没し偵察した。
1992年2月11日、米原潜SSN-689「バトンルージュ」は、ロシアのセヴェロモルスクの「北方艦隊」の基地近くで、原潜K-276「コストロマ」と衝突した。ロシアの原潜が、通信のために浮上しつつあったときに、その上にいた米艦の船首に司令塔をぶつけた。
司令塔部分は、北極の氷を砕くことも目的としていたため、「バトンルージュ」は深刻な損傷を受けた。
「バトンルージュ」のゴードン・クレーマー艦長は「調子に乗り過ぎた」と、「コストロマ」の艦長、イーゴリ・ロコチ大佐は考えた。
「どうやら、彼は自分がこの状況を支配していると感じていたようだ。私が(最も近くて最も危険な目標までの)距離を測定しながら盛んに活動している間は、ゴードン・クレーマーは私を『捉えていた』。ところが、私が浮上し始めると、彼は私を見失った。どちらの艦も騒音が小さかったからだ。そこで彼は、騒音が途絶えたところに急行し、我々の艦が消えた状況を調べることにした。そしてそれを知ったというわけだ」
損傷にもかかわらず、「バトンルージュ」は、外国の領海に浮上する大胆さはなく(*米海軍は、衝突事故は沿岸12マイル〈22km〉を超えた公海上で発生したと発表した)、速やかにノルウェーの方向に退却した。