左から右へ:イギリスのチャーチル首相、アメリカのハリー・S・トルーマン大統領、ソ連の独裁者ヨシフ・スターリン。
Getty Images冷戦は、アメリカとソ連、およびそれぞれの同盟国との間の対立と定義されている。1945年のナチス・ドイツの敗北から数年後、米ソ両国、両陣営の対立が鮮明になり、間もなくそれは本格的な敵意に変わった。敵意は、イデオロギー、経済、科学、軍事、その他の領域に及び、2つの超大国が互いを凌駕しようとしのぎを削った。
冷戦は約50年間続き、公式には1991年のソ連崩壊で終わった。
米ソいずれが冷戦開始の主な責任を負っているか?これについてはいまだに議論されている。しかし、米ソ双方が緊張の高まりを促したと考えるのが公正だろう。
ようやく得た勝利の果実を保ち、ソ連への別の壊滅的な攻撃の可能性を除こうとして、ソ連政府は、第二次世界大戦後、ヨーロッパでの地位を強化しようとした。そして、赤軍がナチスから解放した東ヨーロッパ諸国のいくつかに左翼政府を樹立した。
ソ連はまた、共産主義を維持するイデオロギー上の理由から、全世界に共産主義を広める意思を明らかにした。
一方、米国は、戦後、弱体化した欧州に影響力を拡大する絶好の機会をつかんだ。そして、長年にわたる政治的孤立(孤立主義)の後、世界政治における支配的な勢力として台頭した。欧州に共産主義政府を樹立するソ連の野心に対抗することは、世界的な超大国になることを熱望していた米国にとって当然のことだった。
冷戦は、次の状況で激化した。つまり、米政府が、「マーシャル・プラン」の名で知られる欧州の大規模な復興計画を実施し、いわゆるトルーマン・ドクトリンの導入を発表したときだ。これは基本的に、米国が世界中のいたるところでソ連の勢力拡張を「封じ込める」ことを意味していた。しかも、間もなく北大西洋条約機構(NATO)が創設された。
ソ連の指導者ニキータ・フルシチョフ
Getty Imagesある意味では不可避だっただろう。なるほど、米国とソ連が仮に異なる行動をとっていたら、歴史がどのように展開したかは分からない。しかし、振り返ってみると、冷戦を引き起こす要因は非常に多かった。だから、米ソいずれにとっても、冷戦を回避するすべはまったくなかったと考えて間違いあるまい。
一つには、ドイツが欧州での影響力をすべて失い、「力の空白」を残したことだ。これは、ソ連と米国によってすぐに埋められ、当然の成り行きとして両国はライバルとなった。対立するイデオロギーも、当然、関係を友好的なものにはしなかった。
米ソ両国は、冷戦の開始時に核兵器を得て、世界の主要な大国になった。これらすべての要因が相まって、振り返ってみると、冷戦はほぼ不可避となったように思われる。この壮大な地政学的競争、対立を避けることができたか否かは、我々には決して分かるまい。
1962年のキューバミサイル危機。
Getty Images米ソ間のグローバルな対立は、2つの超大国間の公然たる戦争に決してならなかったため、「冷たい」戦争として知られていた。「冷戦」という用語は、1945年にイギリスの作家、ジョージ・オーウェルによってつくられた。彼は、国家間の特異な対立を特徴とする時代を予見した。その時代は、「すぐには隣国を征服できず、恒久的な『冷戦』状態にある」。
オーウェルの予測は信じ難いほど正確に実現した。米国とソ連は、大量の核兵器を保有しているため、互いに征服することができない一方で、恒久的な対立に陥った。
かなり近いところまでいった。実際、冷戦は、複数の代理戦争として現れた。これらの代理戦争において、米国とソ連は、世界各地で起きた血腥い紛争で、それぞれ対立する一方を支援することにより、間接的に戦った。
朝鮮半島、ベトナム、コンゴ、アンゴラ、アフガニスタンなどの戦争は、冷戦の産物だった。これらの戦争、紛争では、米ソの軍人を含む多くの人々が死亡した。
しかし、これらの紛争は、米ソ間の公然たる軍事的対立とはみなされなかった。そのかわり、米ソ両政府は、これらの紛争をそれぞれのイデオロギーを広め、世界各地で冷戦上のライバルを弱体化させる取り組みの一環と見ていた。そして、この「取り組み」は、地元住民を犠牲にして巨大な惨禍を嘗めさせたと同時に、対立する側の一方と組むことで何らかの利益を引き出していた。
だが、冷戦中のいくつかのケースでは、米国とソ連は、直接戦う瀬戸際までいった。たとえば、1962 年の「キューバ危機」の間、世界は第三次世界大戦にかなり近づいていた。1983 年には、技術的なミスが原因で、米ソ間の核戦争が起きかねなかったが、ソ連軍の将校、スタニスラフ・ペトロフが、誤った警報を受けながらも、米国を核攻撃しない決断をしたおかげで、「黙示録」は避けられた。
1991 年 8 月 20 日のモスクワ。ソ連クーデター未遂事件。
Andrei Solovyov/TASS1991年にソ連が消滅したとき、米国は、膠着状態が続いてきた冷戦で「最後に残った者」となった。
しかし、歴史家らは、米国が冷戦に「勝利」したと評価するのが正しいかどうかについて意見が分かれている。ソ連崩壊の主な理由が不明だからだ。
なるほど、米国は、費用のかさむ代理戦争とさらに法外に高額な核兵器開発競争を通じて、ソ連の資源を枯渇させたという意見もある。
しかし、米国はソ連崩壊を傍らから目撃したに過ぎないと主張する者もいる。つまり、共産主義の超大国は、多くの内部問題のために崩壊した。それらの内部問題とはつまり、計画経済の非効率性、巨額の軍事費、腐敗、共産党の全体主義支配、言論の自由を含むさまざまな自由の欠如などである――。
いずれにせよ、仮に米政府がライバルの崩壊を明確な勝利とみなしたとしても、冷戦後の時代は米国に多くの新しい試練をもたらした。ソ連という大敵を失った後、米国は、国際政治において凋落しつつあると考える者もいる。
また、ソ連崩壊は、「人類のイデオロギー進化の終点」を画したという意見もある。実際、1990年代初めには、多数の人々が「終点」の到来を信じていた。もっとも、その後に展開したポスト冷戦時代は、多くの者にその意見の妥当性を疑わせたが。
*ソ連が形成された経緯については、こちらでどうぞ。
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