ナチス・ドイツは、欧州のほぼ全域から人的および物的資源をソ連との戦いに引き込むことに成功した。ドイツ軍とともに赤軍と戦ったのは以下の軍隊だ。イタリア、ルーマニア、ハンガリー、フィンランドの軍隊、スペイン、スロバキア、クロアチアの部隊、ナチス占領下のフランス、ベネルクス諸国、スカンジナビアからの志願兵…。
戦争中に何度か、ソ連は軍事的破局の瀬戸際に追い詰められた。1941年秋、ドイツ軍は、モスクワに肉薄した。1942年夏には、ドイツ軍は、ソ連から「戦争の血液」すなわち石油をほぼ完全に奪う、その一歩手前までいった。
「スターリングラードの戦い」で勝利を収めて、ソ連はようやく一息つくことができた。しかし、ソ連はさらに2年半の凄惨な戦いに耐えなければならなかった。
1941年:戦争初期の赤軍を見舞ったカタストロフ、そしてドイツの電撃戦の失敗
1941年6月22日午前4時、ナチス・ドイツ軍は、「バルバロッサ作戦」(ナチス・ドイツとその同盟国の一部によるソ連侵攻作戦のコードネーム)によりソ連領に侵攻し、ソ連の3つの主要都市であるモスクワ、レニングラード(現サンクトペテルブルク)、キエフに向けて攻撃を展開した。敵はこの攻撃により、作戦および戦術において、ほぼ完全な不意打ちに成功した。
赤軍における以下の深刻な問題――部隊間の無線通信の劣悪な状態、各司令部と各指揮官の連携のまずさ、軍が整然たる組織の体をなしていないこと、戦闘経験の欠如、赤軍の指揮の誤り――、これらの問題が積み重なって、独ソ戦の初期においては、赤軍は惨憺たる敗北を喫した。
赤軍の激しい抵抗にもかかわらず、ドイツ軍は容赦なく前進した。6月24日にビリニュスが占領され、6月28日にはミンスク、7月1日にはリガが占領された。9月8日にはレニングラードが完全に包囲された。そして同月の15日に、キエフの周りに巨大な包囲網が形成される。ドイツ軍のモスクワ占領を妨げるものはもはや何もないように見えた。だが、首都の近郊で、ドイツ軍は大失敗することになる。
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1942年:敗北の瀬戸際にあったソ連
赤軍がモスクワ近郊で突然、大反攻に転じた結果、意表を突かれた敵は、首都から数百キロ離れた地点に追いやられた。ソ連の政治指導部は、戦争の主導権を自分たちが手中にする時が来たと判断した。しかし、その後の出来事が示すように、ドイツ軍の攻勢を「帳消しにする」には時期尚早だった。
1942年の冬から春にかけて、赤軍は、すべての前線において攻勢に出ようとしたが、部隊を分散させたため、成功は限定的だった。ドイツ軍の一部は後退を余儀なくされたものの、トヴェリ州のルジェフ地区で橋頭堡を維持した。ここからドイツ軍は、依然としてモスクワを脅かす可能性があった。また、レニングラード封鎖を解除しようとする赤軍の試みも撃退し、クリミア半島の大部分を保った。
ハリコフ周辺での5月の赤軍による攻撃(第二次ハリコフ攻防戦)は、ソ連にとって大敗に終わった。約20万人の赤軍将兵が完全包囲され、「袋のネズミ」となった。主にこの惨敗のせいで、ソ連南部でドイツの電撃戦は息を吹き返した。
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1943年:全戦局の転換点
「スターリングラードの戦い」において、赤軍は、敗色濃厚な戦況を一転、輝かしい勝利に変えることができた。赤軍は、ドイツの大部隊を殲滅しただけでなく、ナチスの同盟国、イタリア、ルーマニア、ハンガリーの部隊を壊滅させた。
赤軍に圧迫されたドイツ軍は、ヴォルガ川沿岸とカフカスから撤退した(これにより、ソ連の石油を押さえる夢は、永遠に消えた)。また、ドイツ軍は、ルジェフ地区の突出部からも退いたので、最終的にモスクワへの脅威は消えた。赤軍はさらにこの機に乗じて、ついにレニングラードの封鎖を突破した。
1943年春に独ソの戦線が安定すると、両軍は、クルスク付近で雌雄を決する戦いの準備を始めた。ドイツ軍が夏にここで行った「ツィタデレ(城塞)作戦」は、ヒトラーが東部戦線で主導権を取り戻す最後の試みとなった。
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1944年:ソ連版の電撃戦
「クルスクの戦い」での勝利の後、赤軍の勢いはもはや止めようがなくなった。1944年初めに、赤軍はついにレニングラードの封鎖を解除し、春までに、クリミア半島と、ウクライナ右岸のほぼ全域の解放を終えた。3月26日、赤軍はソ連とルーマニアの国境に達した。
1944年夏、赤軍はドイツ軍に見せつけた――1941 年の苦い教訓を十分に学んだ赤軍は、今や自分が電撃戦の戦略を駆使できる、と。ドイツ軍のソ連侵攻開始からほぼ3年後の6月23日、ベラルーシへの攻撃作戦が開始された。これは「バグラチオン作戦」と呼ばれる。
わずか2か月で、赤軍は西に550~600キロ快進撃し、ドイツの17の師団を撃滅し、ベラルーシの全域とポーランド東部の大部分を解放した。ドイツ軍の将兵の損害は、約50万人にのぼった。
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1945年:「ファシストの獣の巣」で
第二次世界大戦の最後の年だ。この年の初め、赤軍は、ブダペストで激しい市街戦を繰り広げ、ワルシャワの解放と東プロイセンへの攻撃に備えた。敵は、1944年に大打撃を受けたものの、依然として比較的高い戦闘力を保っていた。重要な工業地帯と主要な同盟国のほぼすべてを失ったにもかかわらず、ドイツ軍は、最後まで戦う用意があった。
2月初旬、赤軍は、「ヴィスワ=オーデル攻勢」を展開しつつ、ゲオルギー・ジューコフ元帥率いる「第1白ロシア方面軍」が、ベルリンの近郊に到達した。第三帝国の首都まではわずか70キロを残すのみ。この都市への決定的な攻撃が準備されていた間に、ドイツ軍は、最後の攻勢「春の目覚め作戦」を始動。
1945年3月、バラトン湖とヴェレンツェ湖の近くで、約40万人のドイツ軍とハンガリー軍が「春の目覚め作戦」に参加したが、赤軍の陣地を数十キロ突破するのが精一杯だった。このドイツ軍の攻勢が失敗した後、ウィーンへの道が赤軍に開かれた。
>>>「ベルリンの戦い」がいかに行われたかは、次の記事でどうぞ。