独ソ戦終局の「ベルリンの戦い」:第三帝国の首都への道(写真特集)

ベルリンの路上で交通整理をする赤軍兵士カーチャ・スピヴァク。1945年5月

ベルリンの路上で交通整理をする赤軍兵士カーチャ・スピヴァク。1945年5月

Yakov Ryumkin/Sputnik
 すでに国会議事堂(ライヒスターク)をめぐる戦闘が起きていたときに、ドイツ軍司令部はソ連に停戦を提案してきた。ソ連側の回答は明確だった。すなわち、停戦は、完全な無条件降伏によってのみ可能である。

 1945 年 2 月初旬、ゲオルギー・ジューコフ元帥が指揮する「第1白ロシア方面軍」は、ベルリンの郊外に達した。「ファシストの獣の隠れ家」まであと70キロメートルだった。

 次の数か月間、赤軍は戦力を強化し、戦争の最終段階における最も重要な作戦に備えた。当時、東ポメラニア、ハンガリー、スロバキア、オーストリアでの攻撃の成功により、主な攻撃目標に向けて活動している赤軍の側面の安全を確保できるようになった。

ベルリン作戦に参加する第2親衛戦車軍

 ベルリンを占領するために、ソ連は約 200 万人の兵力を集中させた。ジューコフ麾下の軍に加えて、この作戦には次の部隊が参加した。イワン・コーネフが指揮する「第1ウクライナ方面軍」、コンスタンチン・ロコソフスキー元帥麾下の「第2白ロシア方面軍」、第 18 長距離航空軍、ドニエプル艦隊、バルチック艦隊。さらに、ポーランド軍の第 1 軍と第 2 軍も、前線の一部として行動した。

 「我々は、防御する敵軍を、直ちに震撼させ戦意を失わせるような兵力で攻撃することにした。すなわち、空軍、戦車、大砲、その他の兵器を一斉に敵に浴びせかけた」。ジューコフは、回顧録『回想と思索』でこう書いている

ベルリン戦闘中のソ連軍

 一方、第三帝国の首都は、ドイツ陸軍の「中央軍集団」と「ヴァイクセル軍集団」、および「フォルクストゥルム」(国民突撃隊)の大隊の合計80万人によって守られていた(*「国民突撃隊」は、1944年9月に総統命令により、ドイツ本土防衛に向けて創られた軍事組織だ)。赤軍は、人員と航空機で敵を2倍、大砲、戦車、自走砲で4倍上回っていた。

 ドイツ軍は、オーデル川からベルリンまで築いた強力な多重防御にすべての希望を託した。赤軍が克服しなければならなかった最初の本格的な要塞線の 1 つが、ゼーロウ市近くの高地だった(ゼーロウ高地の戦い)。

 ここでは、ドイツ軍の10万人の将兵が重火器で守りを固めていた。ジューコフ元帥が指摘したように、「(ドイツ軍は)地面を深く掘っていた。とくに、高地の反対側の斜面ではそうだった。そのため、敵は、我が軍の砲撃と空爆から将兵と装備を守ることができた」

ベルリンの街中での戦闘

 4 月 16 日に始まった「ゼーロウ高地の戦い」では、初めのうち赤軍の攻撃はかなり困難を強いられた。赤軍は、ドイツ側の防御に大いに手こずりつつ、敵の激しい抵抗を制圧していった。ゼーロウが占領されたのは、ようやく4 月 18 日のことだ。

 にもかかわらず、数日後、「第1白ロシア方面軍」と「第 1 ウクライナ方面軍」の戦車部隊は勢いを増し、敵の防御線の突破に成功し始め、ドイツの首都への道が赤軍全体に開かれた。

 4 月 20 日、赤軍の長距離砲が初めてベルリンに向けて発砲した。これにより、アドルフ・ヒトラーの誕生日を独特のやり方で「祝った」。

フランクフルター・アレー鉄道駅に入るソ連軍兵士たち

 ジューコフとコーネフの方面軍はそれぞれ、北と南からベルリンを整然と囲んでいき、包囲網をつくろうとしていた。両司令官はいずれもベルリンに一番乗りする用意があったが、結局、スターリンはジューコフに首都占領を任せた。

 4 月 25 日、ベルリンの西、ケッツィン地区で、「第1白ロシア方面軍」の第 2 親衛戦車軍の部隊が、「第 1 ウクライナ方面軍」の第4親衛戦車軍の部隊と出会った。こうして、ベルリンは完全に包囲され、ドイツ国防軍と武装親衛隊、および「フォルクストゥルム」(国民突撃隊)大隊の合計約 20 万人の将兵が閉じ込められた。  

 この頃までに、第三帝国の首都は、真の要塞となっていた。すべての街路、分厚い壁をもつすべての高層ビルは、要塞エリアとなった。ドイツ軍は、地下の通路(地下鉄、防空壕、下水道、排水路)を活用して、一つの区画から別の区画にすばやく移動し、意表を突いて赤軍の後方に現れることさえあった。

 赤軍の攻撃は、大砲、戦車、自走砲、工兵で補強された機械化部隊からなる攻撃部隊によって行われた。

 「パンツァーファウスト(*携帯式対戦車擲弾発射器)から少なくとも片側を守るために、我々は建物の壁にくっつきながら、ゆっくりと前進した。通りの真ん中を進んだ者は誰であれ、すぐに砲火を浴びた」。戦車兵だったイワン・マスロフは振り返る

 ドイツ軍の対空砲火も同様に危険だった。それらは、赤軍の航空機だけでなく、装甲車両や歩兵にも向けられた。

国会議事堂の階段にいる赤軍兵士たち

 赤軍がベルリンの中心部に近づくにしたがい、ドイツ軍の抵抗はいよいよ激しさを増した。

 「市の守備隊の多くは、生き残りをかけて戦った。彼らは、赤軍を十分な時間食い止められるだろうと当てにしていた。それは、西側の軍隊に、できるだけドイツの多くに地域を――あわよくばベルリンを――占領させるためだった。しかし、この希望は実現する運命になかった」。ドイツの第56装甲軍団の将校、ジークフリート・クナッペはこう語っている。   

 ヒトラーが自殺した4 月 30 日、ドイツの守備隊は既にいくつかのグループに分断されており、国会議事堂(ライヒスターク)をめぐる激しい戦いが始まった。ソ連の 152 mm 榴弾砲と、「スターリンの大ハンマー」と呼ばれる強力な 203 mm 榴弾砲が、建物を直撃した。同日の夕方、赤軍は、突撃用の赤旗を初めて屋根に掲げることに成功した。

国会議事堂

 5 月 1 日の夜、参謀総長のハンス・クレープス大将が率いるドイツ代表団が、カール・デーニッツ海軍大提督を首班とするドイツ新政府を代表し、白旗を掲げてワシリー・チュイコフ中将(後に元帥)の第8親衛軍の司令部にやって来た。ドイツ側は停戦を申し入れたが、まったく呑めない要求を突き付けられた。つまり、無条件降伏あるのみとの明確な回答だ。

 同日の朝、ミハイル・エゴロフ軍曹とメリトン・カンタリヤ伍長は、国会議事堂に第 150 歩兵師団の突撃旗を掲げた。これに後に、「ライヒスタークの赤旗」として、ベルリン陥落を象徴するものとなり有名だ。にもかかわらず、パンツァーファウストの爆発で炎上した建物の中で、戦闘が夜遅くまで続いた。

ミハイル・エゴロフ軍曹(右)とメリトン・カンタリヤ伍長(左)

 5 月 2 日、ドイツ軍司令部はついに、これ以上の抵抗は無意味だと判断した。午前6時半、最後のベルリン防衛軍司令官を務めたヘルムート・ヴァイトリング大将は、市の防衛軍の残軍に降伏を命じた。

 「ベルリンの戦い」において、赤軍は、敵の歩兵師団 70 、および装甲師団と機械化師団23を撃破した。ドイツ軍の戦死者は約10万人(ソ連側は8万人)にのぼり、48万人以下が捕虜となった。

 赤軍の何万人もの将兵が、戦闘での勇気と英雄的行為に対して勲章を与えられ、600 人以上が「ソ連邦英雄」の称号を授与された。また、187の軍団と部隊に「ベルリン」の名誉称号が与えられた。

 しかし、第三帝国の首都の占領は、戦争の即時終結にはつながらなかった。ドイツ北部に位置する新政府は、アメリカとイギリスに対しては降伏する用意があったが、ソ連へはその気がなかった。また、オーストリアとチェコには、ドイツ軍の大部隊がまだ展開しており、反撃の構えだった。

 さらに、ソ連領の一部さえ、敵に占領されたままだった。クールラント(ラトビア西部)では、海岸に追い詰められた20万人のドイツ軍集団が抵抗を続けていた。彼らは、1944年秋に主力部隊から切り離されていた。 

国会議事堂を背景にした機関銃手ビクトル・レヴィン

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