1989 年からサンクトペテルブルクで、毎年恒例の国際映画祭「メッセージ・トゥ・マン」(Message to Man)が開催されている。その最初の規定にうたわれていたように、このフェスティバルの目的は次のようなものだ。
「映画の中で善、社会正義、平和のテーマを展開させている、様々な国の映画人を招いて、彼らの交流とアイデアの交換を促すこと」。この文脈からすると、2001年のフェスティバルにレニ・リーフェンシュタールが招かれたことはかなり奇異に思われる。
この映画監督は、1932 年にアドルフ・ヒトラーと知り合った。そして翌1933年、宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスは、ナチのニュルンベルク党大会についての映画を製作するよう彼女に依頼した(これは記録映画『信念の勝利』となった)。その後も何本かの映画がつくられ、ナチの党大会だけでなく(1935年の『意志の勝利』など)、1936 年のベルリン・オリンピックも題材とした(記録映画『オリンピア』)。
1945 年 4 月、リーフェンシュタールはアメリカ軍に逮捕された。そして、1948 年、非ナチ化裁判において、「ナチス同調者だが、戦争犯罪への責任はない」との無罪判決で、釈放された。
世論を二分した訪露と受賞
ナチス・ドイツ崩壊から 56 年後、レニ・リーフェンシュタールは、ノンフィクション映画祭のために訪露した。彼女の映画『意志の勝利』と『オリンピア』は、特別プログラム「全体主義国家のドキュメンタリー映画」の一環として上映された。
ナチの党大会を記録した『意志の勝利』は、サンクトペテルブルクで最も古い映画館の1つである「オーロラ」で上映される予定だった。この映画館は、レニングラード包囲戦の間も、上映を止めなかった。
だが、大勢の人々がこれに抗議したため、リーフェンシュタールの映画の上映は、ドーム・キノー(映画会館)で、一般公開なしで行われた。
映画祭委員長のミハイル・リトヴャコフは、リーフェンシュタールの映画産業への貢献に対して賞を贈った。世論は二分した。ある者は、これは冒涜的行為だとして抗議した。総統の依頼で映画を製作し、前世紀のあの出来事にある程度責任を負っているドイツ人女性が、サンクトペテルブルクで名誉をもって迎えられるとは…と。またある者は、映画の生けるレジェンドと会える機会を喜んだ。
いずれにせよ、ミハイル・リトヴャコフは、映画祭の後、2 年間にわたって、検察庁と下院(国家院)にいたるまでの様々な機関に出向いて、20 世紀の映画で最も物議を醸した人物を招いたことについて弁解しなければならなかった。