ロシアの魔女に関する5つの事実

歴史
ゲオルギー・マナエフ
 ロシアの魔女は、ヨーロッパの同業者に部分的にしか似ていない。ロシアの魔女は魔術師よりも数が少なく、焼かれはしたがそれは火刑ではなく、また魔女の依頼主には貴族や皇帝の一族さえいた。

 ロシア語で魔女を指す言葉は、「知る」という語が語源(ведьма  ведать)であり、秘密の知識を有する者を意味した。ピョートル大帝以前のロシアでは、魔女、占い師、まじない師などは、社会に必要な構成要員だった。魔女の仕事は、治療や呪い、婿や嫁を魔術で惚れさせたり嫌わせたり、占い用の本で未来を予言するなど。

 要するに、現代でも人々がタロットや「奇跡の治療」に頼るのと同じ対象だったのだ。唯一の違いは、17世紀当時はこのような行いには鞭打ち刑が科され、ポルチャ(祟りによって病や災厄をもたらすこと)を行うと木枠に入れられて火あぶりになりかねないことだった。

ロシアの魔女は異分子

 村では、民衆から見て何らかの「真っ当ではない」行いによって、魔女と決めつけられることがあった。

「魔女扱いされるのは、一般的な人生から外れた女性、特に、家庭的役割からの逸脱した女性というケースが多かった」と、民俗学者のタチヤナ・シェパンスカヤは『男性と女性:ロシアの伝統文化における男性性と女性性事典』の魔女に関する項目に書いている。「頭巾無し女」、すなわち、嫁入り前に過ちを犯した女性、親の同意無しに結婚した女性、駆け落ちした女性、「ヴェカヴーハ」、すなわち、一度も結婚しないまま歳を重ねた女性などは、高確率で魔法や呪術使いの疑いを持たれた。 

 キース・トマスは『宗教と魔術の衰退』の中で、このような女性は頻繁に生活上の支援を必要とする弱者であり、彼女らの頼みを拒否する口実として「魔女」呼ばわりし、門前払いしたのだという説を展開している。当然ながら、あえて「魔法」を生業にする女性もいた。

 ロシアの魔女は、必ずしも独身だったわけではない。ニコライ・ノヴォムベルグスキーの著書『17世紀モスクワ・ルーシにおける魔術』には、町住まいの魔法使いの家族構成が紹介されている。教会勤務者、砲兵、竜騎兵、「風来坊」、銃兵、傭兵などの妻がいた。その大半は召使、農民、異民族(タタールや「チェルケス人」)など下層、無権利の階層の出身者であった。

 ロシアの魔女や魔法使いの際立った特徴としては、その貧困が挙げられる。魔術の仕事は低賃金で、よく知られている魔女も、施しを受けて生活している者が多かった。

 「魔法は弱者と寄る辺なき者の武器だった」と、ナーダ・ボシコフスカは指摘する。「女性達は魔術や妖術に対する恐怖を、より強く権威がある相手を脅すために利用した」。 

 実際、脅すことができた。1627年のボルホフで銃兵の妻アンナは、ポルチャで小地主(軍の下級役人)の息子を脅した。ステンカ・ラージンの乱の際には、魔女のアンナ・アルザマスカヤ(チェムニコワ)が有名になった。コサックの女隊長で農民であった彼女はポルチャを行い、他者にもその技を伝授していた。 

ロシアの魔女は、社会的に重要な役割も担った

 ロシアの資料には明確な悪事、すなわち雹や悪天候をもたらしたり、悪魔を召喚したり、いけにえを捧げたりする魔女の情報は見られない。なぜロシア社会に魔女が必要だったのか?例えば儀式や民間治療などだが、なんと、窃盗事件の捜査にも必要とされたのである。

 村のまじない治療師や魔女、あるいは普通の未亡人や独り身の女性は様々な儀式に参加していた。これらの儀式は異教の時代に由来するものであり、例えば、「オパヒヴァニエ」は、村の家畜を「牛の死」すなわち疫病による大量死から守るための儀式である。未亡人や独り身の女性は、この儀式に不可欠だった。

 医師による医療が期待できない環境では、歯痛やヘルニア、「黒い萎黄病」(てんかん)等、よくある疾病の際にはまじない治療師の助けが必要だった。1642年、ある銃兵は知り合いの女性に、まじない治療師から入手したと思われる「黒い萎黄病」除けのまじないが施された文書を渡している。ヴォロゴツキー地方の未亡人のウリータ・シパノワは母親に治療術を学び、その家には様々な病気の治療やシラミ除けに使う植物の根や石が蓄えられていた。 

 治療ができるからには、もちろん、魔女は人に病や災厄をもたらすことも可能だった。村では、シャックリやてんかん発作、肺結核、男性の性機能障害などが魔女の仕業とされることが多かった。脱腸もまた別個の分野で、呪文で治療をすることもあれば、煮た沼水を飲ませるなどして脱腸を引き起こさせることもあった。婿や嫁を魔術で惚れさせたり嫌わせたりするのも、魔女の領分である。

 窃盗や詐欺に遭った人々や、仕事で問題を抱える人々も、まじない師や魔女を頼った。行政が農民や貧民の小さな争いに無関心だとすれば、魔女の他に頼るべきところは無い。

 1647年、盗難に遭ったモスクワの農民シーモンは魔法使いのダリイツァに助けを求め、彼女は犯人を示したという。ルフ村に住む農婦は1658年、まじないの掛けられた塩を入手し、夫が牢獄から出られるようにと、その塩をまいた。モスクワのまじない師たちは商売繁盛の呪文を売り、ある魔術師は「庭の中心にクマの頭を埋めれば、家畜が増える」というアドバイスを送った。

ルーシには魔女になる方法があった

 ルーシでは、魔女になる方法があると信じられていた。ただし悪魔と契約するのではなく、異界の存在と交流することによって魔女になるとされた。シェパンスカヤによると、男に捨てられたノヴゴロドの女性が夢にクマの姿の魔術師を見、それに秘密の知識を授けられた。この女性はオクロフスキー地域で名のあるまじない師になったという。異界からの庇護者に能力を授けられたことによって、この女性は夫の代わりにまじないを生きる意味にしたというのである。

 庇護者たるデーモンは、別の魔術師や魔女から授かることもできた。例えば、その死に際して。

 ノヴゴロド地方では、火球の蛇の伝承もある。いわく、「雄鶏の卵」(未熟のまだ柔らかい、ウズラの卵サイズの鶏卵)を見つけて、脇の下で2週間あたためて、なおかつ秘密にする誓いを守れば、この蛇を創造できるという。夜に窓辺に空の壺を置いておけば、こうして生まれた蛇が他所の牛のミルクを主人に持ってくるという言い伝えである。

ロシアの魔女を迫害する民衆

 魔女探しは、村の生活の危機と関連する事が多かった。干ばつや疫病、家畜伝染病、ヘルニアや麻痺などの不幸に際し、絶望から事の元凶を求めるのだ。 

 魔女は、その儀式の最中が最も正体を暴きやすいとされた。魔女は夜明け時の畑で麦やライ麦を編み、髪をほどいたまま露の上を歩き、牛の乳を奪うためにテーブルクロスを拡げて歩き露を集めるとされた。 

 魔女は動物、とくに猫や犬や豚に変身できると信じられた。時には主のいない動物をつかまえて、耳や顔に傷を残して目印とした。もしその後、嫌疑をかけられた女性の体調に異変があれば、「罪状」は証明されたことになる。

 村の女たちは独り身の女性の家を見張り、夜間に灯りが頻繁に灯されないか監視した。それは「女のもとに蛇が通っている」、「レーシー(森の精)が通っている」からだとされた。婚外子が産まれたら、「悪魔から孕んだ」。老女がなかなか死なないと、誰にポルチャなどの害を成したか訊かれた。というのも、魔女はその罪によりあの世へ行けないとされたからである。魔女を死なせるには、魔女から力と知識を奪うのが良いとされた。

 「証明された」魔女は人々から避けられたのみならず、罰されることもあった。家に招き入れず、塩やマッチや麦をやらないようになった。家に放火されたり、魔女自身が火をつけられたりした。19世紀末のヤロスラヴリ県ポシェホンスキー郡では農民たちが老婆に魔女の嫌疑を着せた。原因は家畜の疫病死で、あやうく老婆は木枠に入れられて火あぶりになるところだった。聖職者が介入して、ようやく老婆は救われた。

ロシアとヨーロッパの魔女の違い

 そもそもルーシにおいて、魔女が死刑になるケースはそれほど多くない。1622~1700年の間、モスクワで扱われた魔術に関する裁判99件のうち、火刑に処されたのは10件。火刑に際しては柱に縛り付けるのではなく、木枠に入れられた。この火刑方法は、古儀式派に対するものと同じである。またロシアの資料には、魔女の集いに関するものは残されていない。

 「魔女が空を飛ぶという話も、魔女が夜会を開くという話も、文字の上では残されていない」と、ナーダ・ボシコフスカは書いている。 

 ロシアにも魔女の正体を「暴く」方法は存在したが、それは水責めや体重計測、身体にある悪魔の印や特徴を探すといった方法ではなかった。まじない師や魔女には肉体を引っ張る拷問台が使われたが、これはあらゆる刑法犯に用いられた、最も一般的な尋問方法の一つだった。

 ボシコフスカによると、「結局、ロシア・ツァーリ国において呪術は、健康に害を成す特殊な方法にとどまった」ということだが、これは第一にポルチャのことである。呪術に対する罰の多くは、一般の刑法犯に対するものと何ら変わらなかった。鞭打ちやシベリア流刑が、呪術を使った罪が認められた者を待ち受ける刑罰だった。

 もう一つの重要な特徴は、ルーシにおいて呪術は女性の専売特許ではなかったことだ。呪術を使用した罪に問われた女性は、男性より少ないのが常だった。呪術史の研究者であるヴァレリ・キベルソンは17世紀に扱われた223件の呪術に関する裁判を調べた。495名の被告人のち、367人(74%)が男性で、女性は126人(26%)に過ぎなかった。