なぜソ連はピューリタン的になったか?

ソ連特集
ソフィア・ポリャコワ
 ソビエト連邦はほんの10年かそこらの間に、私生活の完全な自由から寝所に至るまでの管理社会に変わってしまった。

 1920年代のソ連は自由恋愛が花開いた時代だった。革命前の禁則や制限は過去のものとなり、社会主義革命とともにセクシュアル革命がもたらされた。しかしそのイデオローグたちは、それが30年代にどのような結末をたどるか、知る由もなかった。

自由恋愛の国 

 10月革命は政権の交代に加え、文化的にも根本からの変化をもたらした。その変化は男女間の関係性にも及んだ。帝政時代のロシアにおいては婚外交渉も姦通も罪であり、離婚と同様、世間から非難された。しかも、男性の場合はそのような振舞いは非難されるにしても十分に有り得ることと捉えられていたのに対し、女性の場合は堕落のレッテルが貼られ、一生涯、まっとうな世間から排斥された。婚姻は教会で行われ、離婚は困難であり、確実に評判を傷つけるものだった。

 ボリシェヴィキが政権をとると、男女関係に関する革命前の法的ないしモラル的な障害の多くは消滅した。

 宗教の拒否により、婚姻はその神聖な性格を喪失し、もっぱら世俗的な性格を帯びる。結婚も離婚も、何度繰り返そうが自由となった。加えて、婚外交渉も非難されるべきものではなくなっていった。

 ボリシェヴィキは、社会的のみならず恋愛においても不平等、差別、搾取はあってはならないとした。両性の関係は互いの好意と同志意識によって構築されるべきであるという。「プロレタリアのイデオロギーは、社会的関係性からエロスを放逐することを目的としない。その目的は、次なる発展段階の矢に換装することであり、関係性に新たな偉大なる精神的パワーの発想、すなわち同志的連帯に基づく愛を教育することにある」と、ソ連における女性問題の主要なイデオローグのひとり、アレクサンドラ・コロンタイは書いている。

 自由に酔いしれた人々は難しい理論には深入りせず、モラルの変革を性の革命ととらえた。党の要職たちもその点、およそ清廉とは言い難いケースが多かった。一部の歴史家たちはレーニンとイネッサ・アルマンド(女性問題におけるコロンタイの仲間)との関係を指摘する。コロンタイも多数の愛人の存在があった可能性が取りざたされた。後に「性の退廃との闘い」をおし進めることになるニコライ・ブハーリンもアナトリー・ルナチャルスキーも、その点同様であった。当時の著名人たちは、このトレンドに敏感だった。革命の詩的アイコンであったウラジーミル・マヤコフスキーはブリーク夫妻と同居しエセーニンは3度結婚し、当然ながら婚外の関係ももった。

 統計も、若者層における意識の変化を裏付けている。1922年、モスクワのとある大学の学生相手に性行動に関する調査が行われた。調査時に性交経験を有していた女子学生の割合は25.7%(1914年時)から53%まで増加していた。もっとも、男子学生に関しては、増加幅はそこまで大きくなく、67%(1914年時)から85.5%になっていた。

路線変更

 自由恋愛と新たな家庭政策は、全ての党幹部に歓迎されたわけではない。しかし、そうした方向性に当初は拒否感を示さなかった者の間でも、かなり早々にその実態に幻滅するに至った。当時の放埓ぶりに眉をひそめていた彼らは、20年代の若者の言動を見てさらにネガティブなイメージを強くした。革命家のクララ・ツェトキンは著書「レーニンの回想」の中で、この問題に関するレーニンの見解を紹介している。

 『性生活に対する若者層の態度の変化は、もちろん、「原則的」には理論に基づいているかのようである。多くの者は自分の立場を「革命的」かつ「共産主義的」と呼んでいる。(中略)それらは全て、我々コミュニストが考える自由恋愛とはまったく無関係である。あたかも共産主義社会では性的欲求と愛情の希求は、コップから水を飲むがごとくに簡単で造作ない、という有名な理論は皆さんもご存知だろう。(中略)この理論の提唱者たちは、これがマルクシズム理論だと言う。社会のイデオロギー的上部構造のあらゆる事象と変化を、率直に余すところなく経済的土台からのみ導き出すとは、実に結構な「マルクシズム」だ。この問題はそれほど単純ではない。

 (中略)しかし果たして、まっとうな人間が普通の状況下で、街中で泥の中に倒れこんで水溜まりの水を飲んだりするだろうか?あるいは、何十人もが口をつけたコップから飲むだろうか?最も大事なのは、社会的な側面である。水を飲むのは、個人的な行動である。しかし愛においては2人が参加し、3人目の生命が発生する。ここには社会的利益がひそんでおり、集団に対する責任が発生する』。

 1920年代末、男女間の関係性はより保守的な方向に回帰する。1926年、教育人民委員ルナチャルスキーは「生活に関する」報告を発表し、若者の性意識を批判した。『恋愛が日常性を帯びて「コップの水」になってはならず、然るべき高みに、何かしら極めて重要な位置になければならない。エンゲルスは自著で家庭と国家について書くにあたり、このような恋愛を洗練されたものと考えた。すなわち、男が、「私はこの他の誰でもないこの女性を愛し、彼女とともに己の幸福を構築し、彼女のために多大な犠牲を差し出し、彼女とのみ幸福になれる」と言う場合だ。女性が、「私はこの男性を選んだ、この人を愛する」と言う場合だ。この時、恋愛は日常や放蕩ではなくなる』。

 同年、党の最高機関の1つである中央委員会のブハーリン委員は「人材をめぐる闘争」というスピーチを行い、コムソモール用の道徳律を作って、特に「性的退廃」との闘いを求めた。 

 1920年代の性的自由は、国家にとって危険になりつつあった。1920年から中絶は合法化されて無料で行われるようになったため、件数が急増した。結婚と母性の制度が瓦解し始めた。妊娠中絶ができなかった場合、女性は子供を孤児院に預けることができたが、孤児院も定員オーバーとなっていた。ソ連の孤児問題は深刻だった。戦争、革命、経済危機により、1922年には50万人の児童が孤児院に収容されていた。収容されていない児童は浮浪し犯罪者になっていった。

古いモラルに回帰する

 政府は制度の厳格化を、道徳的非難から開始した。退廃を批判する党の高級幹部のスピーチの後、現地レベルで行政が動き始めた。私生活は公共のものになる。同僚や上司から不行跡であると判断されたり、家庭内不和が明らかになると、それは集会の議題となった。集会は就業場所もしくは党機関で行われた。集会では参加者が逸脱者を「教え諭したり」、夫婦仲を仲裁した。浮気や喧嘩から、「軽はずみな行動」まで、何でも集会のきっかけとなり得た。

 例えば1935年、レニングラードのとある工場で若い修理工がコムソモールから除名された。理由は、彼が「同時に2人と遊んでいた」からというものだった。別の女性職員は、「ダンスと恋愛沙汰への過剰なのめりこみ」を理由に叱責を受けた。あらゆる不品行の表出は党からの除籍を招きかねず、そのため党員はパートナー選びには極めて慎重になった。彼らの生活は周囲から注目されていたからだ。

 また、離婚手続きは非常に高額になり、最初の離婚以降は費用が何倍にもなった。戦後の新聞の末尾ページには、劇場やサーカスの公演情報に並んで、離婚情報を掲載する欄があった。例えば、「×××に居住するミハイル・ペトロヴィチ・ポターポフは、×××に居住するマリヤ・パヴロヴナ・ポターポワとの離婚訴訟を行った。本件は人民裁判所で審理される」。

 大衆文化もまた、私生活のあらたな規範を示すようになる。映画では、恋愛に一途でない登場人物は否定的に描かれる。映画『戦争と貞操』における裏切り者の性暴力犯のマルクがそうだ。或いは、大人気映画『女の子たち』に登場する美女アンフィーサのように、美しいが性格に難があるために誰からも愛されない人物として描写される。

 30年代初めに、メディアでの広報も無く、中絶は有料化された。1936年からは深刻な疾患がある場合を除いて、中絶は禁止されるに至った(女性の健康や、時には生命も危険に晒すような非合法の中絶が横行したため、1955年にこの禁止措置は撤廃された)。

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