靴を片方だけ履いたり耳飾りを 1 つだけつけたり、三つ編みを2本でなく1本だけにしたりして、「ペア」の規則に違反してはならない――。ロシアの迷信によると、この規則に従わない女性は、まだ未婚の場合は結婚できず、既婚の場合は未亡人になるかもしれない。
革命前の農村では、独り身の女性は、極めて困難な運命を強いられた。農家の生計では、耕作を行い 1 年間生き延びるには最低 2 人が必要だったからだ。とはいえ、もちろん、独り身の女性もたくさんいた。彼女たちは、16~19世紀末のロシアの農村でどのように暮らしていたのだろうか?
未亡人
未亡人になることは、「生ける屍」となることだと農村ではかつて言われた。ロシアの農民の世界では、男性も女性も、結婚して初めて成人とみなされた。戦争、病、事故などで夫を亡くした成人女性は、直ちに別の「身分」に移った。法的、経済的、社会的、そして儀礼的な面で別の存在となったのだ。
夫の死後、未亡人は他のすべての親類縁者よりも長く、最大1年間、喪に服さなければならなかった。服喪中、未亡人は、特別な喪服「クルチンナヤ」を着ていた。これは、白い服で、縁に沿って赤い縞模様が刺繍されているだけだ。服喪中の女性は、「クルチンナヤ」の着替えを何着かもっていた。家庭用、外出用、教会用などだ。
未亡人はどこに住んでいたのだろうか。夫と暮らしたのが 1 年未満で、子供がいない、それとも女児だけがいる場合は、実家に戻る。男児がいる未亡人は、義父の家族にとどまったが、普通はあまり敬意を払われなかった。そして、とくに誰も彼女を亡夫の家に引き留めなかった。だから、未亡人が子供を亡夫の家に委ねて、自分は去る場合もあった。
40 歳以上の、子供がいない未亡人は独りで住んだ。彼女たちは、一般の未亡人と同じく、農村共同体から金銭的援助を受けた。「後家は、孤児と同じように助けるべきだ」と考えられており、孤児と同様に助けるのが通例で、金銭面以外の援助もなされた。
冬に備えて薪と松明を伐って運び込み、水を汲んで運び、穀物を収穫し脱穀する。これらすべての仕事において、未亡人、とくに独り身だったり幼児がいたりする未亡人は、友人や隣人に助けられた。そして、未亡人を侮辱したり虐めたりすることは――ましてや子供ごと虐待することは――、農村では恐ろしい罪とみなされていた。未亡人を虐げるものは厳しく罰せられた。
未亡人が家族に一人残された場合も、ロシアの法律によれば、財産の一部を受け取る権利が確実に保証されていた。どのくらいの割合をもらうかは、夫と暮らしていた年数によって異なった。年配の未亡人は、夫の財産と百姓家(イズバ)を受け取った(家族が裕福だった場合は、立派な邸宅をもらうこともあった)。
夫の遺言によって、または慣習によって、夫に兄弟がいない場合は、未亡人はしばしば不動産や事業を相続した(農民がさまざまな製造業などの企業を所有していることがあった)。そして、相続した後は、自分の名において処分した。そのため、革命前のロシアには、未亡人の企業家、事業主が少なからずいた。
子供と一緒に暮らし、自分で家を切り盛りする未亡人は「ボリシューハ」(女主人、おかみ)と呼ばれ、一家の母として尊敬されていた。彼女は、一家の所有者として村の寄合に出席し、投票権をもっていた。こうした女性は、男やもめに限らず独身男性を家に入れて、夫にすることができたし、あるいはまた、息子たちから世話を受けて、別居することもできた。概して、農村では勤勉さが極めて重視されており、いかなる家業も共同で行う必要があること、つまり強い絆の家族が必要であることを皆が認識していた。
夫の死後の再婚について言えば、未亡人になってから1年後には、彼女たちは、とくに若くて子供のいない者は、再婚することができた。こういう女性は、文字通り夫の死後すぐにそのことを考え始めた。なるべく早く再婚するために、たとえば、故人のシャツの襟を留めたり、ベルトを結んだりしてはならないという迷信があった。
未亡人は、 40 歳でも 50 歳でも結婚することがあった。もっとも、女性が再婚する場合には、実家では通例の「別れの宴」は開かれず、花嫁は、顔を隠さずに結婚式に赴いた。再婚には持参金はなく、婚礼参加者の馬車(橇)の列や大盤振る舞いもなかった。集まるのは近親者だけだ。
「ヴェカヴーハ」(オールドミスに当たる蔑称)
もちろん、何らかの理由で結婚できなかった女性もいた。たとえば、両親は普通、長女より先に年少の娘を結婚させるのは世間体が悪いと考えていた。そのため、長女が花婿候補を探しに、若者たちの夕べの集いなどに出かけている間、下の娘は、婿探しを始める間もなく、「乙女のまま」齢を重ねることがあった。無論、気に入った相手を見つけられなかった女子もいた。農民社会は、こうした女性たちを残酷に扱ったので、今日では不快な驚きを覚えずにはいられない。
こうした「売れ残り」は、さまざまな蔑称で呼ばれた。「ヴェカヴーハ」(オールドミスに当たる蔑称)、「オドノコソク」(「三つ編みが一本」の意味)、「セドコサヤ」(三つ編みが灰色の女)、「ペレスペロク」(熟しすぎた女)など。
両親はそのような娘を橇に乗せて村中を運ぶことさえあった。そして、各戸でこう触れ回った。「ナドルバ、ナドルバ!誰かナドルバは要らんか?」(「ナドルバ надолба」は、門際の柱で、それを棒で叩きながらこう叫んだ)。そして、いずれかの家族が同意すれば、直ちに「手打ち」となり、早くも翌日結婚することさえあった。
「ヴェカヴーハ」であることは、農村では大変な「恥さらし」と考えられていた。そのような女性は、自分の「豊穣」の力を実現し損ねたと見下されていた。ちなみに、跛行、斜視、せむしなどは、結婚の障害とはみられていなかった。
女性がどうしても結婚できず25歳を過ぎると、若者たちは彼女を集まりに招くのをやめ、彼女は、娘らしく装うことを禁じられた。彼女は「できそこないの娘」に成り下がったわけだ。今や、彼女の服は、未亡人や老婆のような暗色になった。「ヴェカヴーハ」は、通常、家族とは別の特別な棟に住んでいて、そこで独自の家計を営んでいた。
未亡人や「ヴェカヴーハ」は、このようにかなり苦しい立場に置かれたにもかかわらず、農村では肉体と精神の清浄さを有しているとみなされていた。そのため、彼女らは、多くの重要な儀礼上の役割を果たした。それは主に、彼岸への移行、すなわち葬儀に関連していた。
「空」と「片割れ」の象徴であったため、未亡人と「ヴェカヴーハ」は、結婚式、出産、洗礼には立ち会わなかったが、死者の湯灌と装いに参加し、埋葬に至るまで遺体の傍に侍した。概して、葬儀の伝統を支え、保持したわけだ。
もう一つの重要な「仕事」は、多くの県(現在の州)で広く行われていたもので、耕地を「汚れなき女」――未亡人と「ヴェカヴーハ」――が「耕す」ことだ。その際に、妊娠中の女性が鋤に「つながれた」。この重要な儀式は、深夜の闇の中で象徴的に「不毛な」女性だけが行うことになっていた。そうすることで、日が昇り、昼が来るとともに、大地は豊穣になるはずだった。
こうした立場で長年過ごした未亡人と「ヴェカヴーハ」は、老後に治療とまじないを始めることがあった。しかし、ロシアの農村には、子供の頃から孤独のうちに生きようと決心した女性もいた。
「チェルニーチカ」(尼、黒衣の女)
「チェルニーチカ」と呼ばれるのは、家庭の道ではなく神に仕える道を歩む女性だ。「チェルニーチカ」とは、「チェルネーツ」(修道士、見習い修道士)という言葉の女性形である。「チェルネーツ」は「チョールヌイ」(黒い)が語源だ。すなわち、黒衣の(妻帯しない)聖職者であることを意味する。
「チェルニーチカ」になるためには、その女性は、結婚適齢期になったら――村の若者が集まりに娘を呼び始める時期だ――、自分は結婚を望まないと宣言しなければならない。こういう決心は、女性の特別な信心深さ、あるいは両親の誓いのためになされることがあった。
女性は、自分の希望を宣言した後、色鮮やかな娘らしい衣装をすべて手放し、未亡人と「ヴェカヴーハ」のような暗い服を着なければならなかった。三つ編みも、「髪が元通りに編めぬように、娘の暮らしには戻らぬ」という言葉とともに、象徴的に切り落とされた。
「チェルニーチカ」のために、彼女の家族は、敷地内に別棟を建てた(修道士のそれのように「庵」と呼ばれていた)。そこに彼女は住み、独立した暮らしを営み、質素な食べ物だけを口にした。
農村における「チェルニーチカ」の主な役割は、埋葬に関連する儀式だった。「チェルニーチカ」は招かれて、死者のために『詩篇』を読み、亡骸を浄めて、然るべき衣装を着せた。たとえば、「ヴェカヴーハ」とは異なり、彼女は、特別な畏敬の念をもって扱われた。なぜなら、こうした女性は、いわば自身の生み殖やす力を神の犠牲に供し、生活を神への奉仕に変えたからだ。
「チェルニーチカ」は、故人の親類縁者から渡されたささやかな喜捨で生計を立てていた。食べ物や布切れなどを贈られることもあった。
また、「チェルニーチカ」は、教会の司祭と輔祭を助けた。これも彼女の重要な役割だ。彼女は礼拝の順序と祈祷文をよく知っていた。村の子供たちに読み書きを教えることもあった。
年配の「チェルニーチカ」は、修道女になることもあった。古のロシアでは、幼い頃から神に献身した、汚れない女性だけが真の修道女になれると信じられていた。