ドミトリー・ヴヌク:イワン3世の最年長の孫(ヴヌク)(1483~1509)
ドミトリー・イワーノヴィチは、いったんはモスクワ大公国の大公位継承者となるが、後にこの地位を剥奪され、獄死した。
ドミトリーは 1483 年に生まれている。彼は、皇太子イワン・マラドイ(若いイワン)の息子であり、イワン 3 世の孫だ。イワン3世は、モスクワ大公であり、モスクワ大公国の覇権を確立した。ロシア史では、ドミトリー・イワーノヴィチは「ドミトリー・ヴヌク」、文字通り「孫のドミトリー」として知られている。
1490年、当時モスクワの大公位継承者だったイワン・マラドイ(若いイワン)が突然、病気になった(重い関節炎)。ヴェネツィアから招かれた医師は命がけで跡継ぎを治すと約束したが失敗し、イワン 3 世によって処刑される。イワン・マラドイは結局、32歳の若さで死亡。8 年後の 1498 年、イワン・マラドイの息子、ドミトリー・イワーノヴィチが、祖父のイワン 3 世によって大公位継承者に定められた。
しかし、イワン 3 世は、2番目の妻ゾイ・パレオロギナ(最後のビザンツ皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴスの姪にあたる)との結婚で、別の子供たちが生まれていた。その長子ワシリー・イワーノヴィチ(1479年~1533年)は、大公位継承者ドミトリー・イワーノヴィチの叔父にあたり、4歳年長だった。1502年、このワシリーが父の共同統治者となり、1505年にモスクワとウラジーミル(当時のロシアのもう1つの主要都市)、および全ロシアの大公として戴冠した。
イワン3 世が 1505 年に死去するや、ワシリーは事実上君主となり、不運なドミトリー・イワーノヴィチを投獄。彼は、1509 年に 25 歳の若さで亡くなる。我々は、彼の生涯についてほとんど知るところがない。ドミトリーの唯一の肖像は、彼の母エレーナが編んだらしい刺繍にある。エレーナも獄死している。
フョードル・ゴドゥノフ(1589~1605)
フョードルはボリス・ゴドゥノフの息子だ。ボリスは、イワン雷帝の息子、フョードル1世の妻イリーナの兄である。フョードル1世は、統治と政策にあまり関わっておらず、ボリス・ゴドゥノフが実権を握っていた。そのため、1598年にフョードル1世が亡くなると、中世ロシアの身分制議会「ゼムスキー・ソボル」(全国会議)は、ボリスを次のツァーリに選んだ。
フョードルは幼時から皇族の一員として扱われ、1598 年に父がツァーリになったとき、戴冠式に参列した。フョードルは まだ9 歳だったが、すでに自分の国璽をもっていた。少年は高度な教育を受け、国の儀式や行事に参加した。
1605 年 4 月、ボリス・ゴドゥノフはポーランド軍がモスクワに迫るなか、突然亡くなった(毒殺説がある)。ポーランドの支援を受けた偽ドミトリー 1 世は、モスクワ占領を目指していた。ロシアが内憂外患で四分五裂した「スムータ」(大動乱)の幕開けだ。当時、ウグリチのドミトリーと名乗る何人かの僭称者がロシアに現れた。ドミトリーは、イワン雷帝(4世)の末子で、1591年に夭折している(事故死と暗殺の二つの説がある)。そのドミトリーが実は生きていました、という触れ込みだ。
16 歳のフョードルはツァーリに即位したものの、自ら統治する準備はできていなかった。1605 年 6 月に親ポーランドの大貴族らによりクレムリンで逮捕されると、偽ドミトリー 1 世が「真の」ツァーリと宣言された。早くもその同日、フョードル・ゴドゥノフは母親のマリア・ゴドゥノワとともにモスクワで殺害されたらしい。
イワン・ドミートリエヴィチ(偽ドミトリー2世の息子)(1610~1613)
1608 年、偽ドミトリー 2 世、つまりイワン雷帝の末子を自称する僭称者の二人目が、偽ドミトリー 1 世の妻だったポーランド貴族の女性マリーナ・ムニシェク(マリナ・ムニシュフヴナ)と正式に結婚した。
偽ドミトリー 1 世は殺害され、その遺体はモスクワの「赤の広場」で晒し物にされたが、マリーナは、偽ドミトリー 2 世は「奇跡的に救われた」夫であると「認めた」。彼らはいずれも、モスクワの支配者の地位を渇望していた。
しかし、偽ドミトリー 2 世は 1610 年に殺され、後に妊娠したマリーナが残された。彼女は、偽ドミトリー 2 世の死の2週間後にイワン・ドミートリエヴィチを産んだ。ロシアで勤務したドイツ人、コンラッド・ブッソウはこう書き記している。
ロシアの貴族たちは、「(男児が)迫害者に殺されぬように、秘密裏に育てると約束した。もし神が彼に命を与え給うなら、彼は将来ロシアの君主となるだろう、と。当時、彼女は、ロシア皇室の規範に則って重んじられていた」
1613 年、イワンがわずか 3 歳のとき、マリーナは、モスクワ近郊のコロムナで幼児といっしょに暮らしていたが、息子に帝位継承権があると宣言。しかし同年、ミハイル・ロマノフが「全国会議」によりツァーリに選出され、マリーナと息子は反逆者と宣告される。
母子は、ロシア南部のアストラハンに逃げたものの、捕らえられた。マリーナは投獄され、幼いイワンは、周囲のできごとが皆目分らぬまま、モスクワで公開処刑された。マリーナ・ムニシェクが息子の絞首刑のゆえにロマノフ家を呪った、という言い伝えがある。
イワン6世(ロシアの「鉄仮面」)(1740~1764)
イワン 6 世は、かなり曖昧ではあるがロシアの帝位継承権を有していた。彼は、ピョートル大帝(1世)の異母兄で彼と共同統治したイワン5 世の曽孫だ。
当時、ロシアはイワン5 世の娘であるアンナ・ヨアーノヴナ(1693~1740)が治めていた。アンナは、帝位を自分の系統、つまりピョートル大帝ではなく父イワン5世の系統に譲りたいと考えていた。そこで、姪の息子であるイワン6 世が、誕生直後にアンナにより後継者に指名された次第だ。
アンナ・ヨアーノヴナが亡くなるとすぐに、イワン6世は即位。亡き女帝アンナの姪でありイワン6 世の母親であるアンナ・レオポルドヴナは、自らを摂政と宣言した。
ところがアンナ・レオポルドヴナは、1741 年にピョートル大帝の娘、エリザヴェータ・ペトローヴナの宮廷クーデターで追放される。アンナと息子の一家は、ロシア北部のアルハンゲリスク州にあるホルモゴルイ村に流刑。1746 年、アンナはここで亡くなる。
1756 年にイワンは、厳重に警備されたシュリッセリブルク要塞監獄に移され、そこで独房に監禁されて、単に「某囚人」と呼ばれる。看守は彼と話すことを禁じられたが、イワンは、自分の皇室の出自を知っていた。
1762 年、当時の女帝エカテリーナ 2 世は、監獄のイワン6 世を訪ね、もしこの「囚人」が逃亡を試みた場合は殺すよう命じた。1764 年、ワシリー・ミロヴィチ中尉がイワン6 世の監獄からの救出を試みたが、イワンは看守により殺された。
皇太子アレクセイ・ニコラエヴィチ(1904~1918)
ニコライ 2 世の息子アレクセイは、ロシア帝国最後の皇太子だった。1918 年 7 月 18 日、エカテリンブルクでボリシェヴィキによって殺害されている。
幼い頃から、アレクセイは、血液の病気である血友病にかかっていることが判明した。この病を彼は母親から受け継いだ。皇帝夫妻は、息子の病気を癒すために、専門の医師だけでなく、ペテン師や霊媒にも助けを求めた。「怪僧」グリゴリー・ラスプーチンは、その怪しげな評判にもかかわらず、実際に皇太子を一時的に癒すか、少なくとも出血を止められたように見えた。
しかし、病気はアレクセイの性格に影響を与えなかったようだ。彼はやんちゃな男の子に育ち、勉強は好まず、軍隊が好きだった。帝位継承者として、アレクセイは帝国内のすべてのコサック連隊のアタマン(指揮官)であり、20 以上の連隊の名誉連隊長でもあった。
皇太子は兵士たちといっしょに過ごすのが大好きだった。彼は兵士たちとお粥やボルシチを食べた。使用人や一般の人々と話すときも、傲慢な様子はなかった。彼はまた、皇室には「ふさわしからぬ」民衆の楽器、バラライカの稽古をしていた。
アレクセイは、ロシア革命とその後の流刑のすべての困難を、父母と姉たち、そして最も親しい使用人たちと、残忍な殺害の日にいたるまで分かち合った。2000 年に彼は、ロシア正教会によって、皇帝一家の他の人々とともに「新致命者」(信仰のために生命を落とした者)として列聖された。