「偽ドミトリー 1 世の共謀者はフョードル2世を殺す」
トレチャコフ美術館1584 年にツァーリ、イワン雷帝(4世)が亡くなったとき、跡継ぎとして残された息子は、多少の知的障がいがあり、またあまりに信心深いため、そもそも国家の統治者には向いていなかった。
かくして、ロシアの帝位は、ボリス・ゴドゥノフが手中にした。彼は、後継者の摂政になったのだが、事実上のツァーリだった。有能な後継者を残さなかった亡きツァーリから教訓を得たボリスは、自分の息子の教育に力を注ぎ、統治の経験を教え込んだ。
ボリス・ゴドゥノフが 1605 年に死ぬと、16 歳になっていた息子フョードルが後を継ぎ、ツァーリに即位した。だが、父親が最大限の努力を注いだにもかかわらず、このフョードル 2 世は、裏切りと背信のなかでの治世を強いられ、わずか1ヶ月強しか帝位を維持できなかった。
間もなくロシアは、「大動乱」(スムータ)と呼ばれる政情不安の時代に突入する。偽ドミトリー 1 世として知られるツァーリの僭称者(せんしょうしゃ)がモスクワに現れ、フョードル 2 世を打倒した。
偽ドミトリー 1 世は、イワン雷帝の末子ドミトリーだと名乗っていた。このドミトリー皇子は、事故あるいは暗殺で夭折したのだが、実は死なずに身を隠していたという触れ込みだった。
16 歳の君主は、母親とともに絞殺された。群衆に示された彼の遺体には、激しい抵抗の痕があった。
「偽ドミトリー 1 世の生涯の最後の数分」
Public domain当然だが、ロシアの帝位の簒奪者には、影響力ある人々の間に多くの敵がいた。偽ドミトリー 1 世とポーランドの貴族女性マリナ・ムニシェクとの結婚式が行われた際に、過度の祝祭が暴走して、モスクワの街が混乱に陥った。
現状に不満をもつ陰謀家たちにとって、これは、新帝に対してクーデターを起こす絶好の機会となった。彼らは、新帝は違法な簒奪者だと信じていた。
1606 年 5 月 17 日、大勢の大貴族と武装した庶民が、赤の広場と「簒奪者」の居室を襲った。怯えた彼は、逃げようとして部屋の窓から直接歩道に飛び降り、重傷を負った。
暴徒は負傷した君主を捕まえ、八つ裂きにして殺した。そして、遺体を赤の広場に引きずり出し、服を剥ぎ取り、口に笛を突っ込み、胸には仮面を置いた(この仮面はかつて宮廷の仮面舞踏会のために用意されたものだった)。
モスクワっ子は、2日間遺体を晒して嘲笑した後で、セルプホフスキエ門の背後の、行き倒れなどを葬る墓地に埋葬した。しかし、彼の墓をめぐる奇跡の噂が広まり始めると、遺体は掘り出されて焼かれ、火薬と混ぜ合わされて、大砲から発射された。
「マリナ・ムニシェクの逃亡」
Public domain1614 年 12 月 16 日、刑吏が3 歳の少年の首に縄をかけた。一瞬の後、幼児は宙に浮いた。当時の人々の主張によれば、この幼児はあまり重くなかったので、縄で首が締まらなかった。だから、この子は数時間後に低体温症で死んだと考えられている。
この悲劇的な運命は、母親マリナ・ムニシェクとその取り巻きの企みの結果と言えよう。マリーナは、偽ドミトリー1世の死後、やはり僭称者で、ロシアの帝位を狙った偽ドミトリー2世とも結婚して、「大動乱」のさなかに、いくつもの政治的危機に積極的に関わった。既に1613年にミハイル1世がツァーリに選出されてロマノフ王朝が成立していたにもかかわらず、彼女らは、イワンを正当な後継者として担いだ。
ピョートル大帝(1世)の二女エリザヴェータは、クーデターでロシアの帝位を奪い、ロシア史上最年少の君主を権力の座から追放した。こうして、イワン 6 世(1740~1764年)は 1 歳で帝位を失う。
幼児は、帝都サンクトペテルブルクから追放され、絶えず死の脅威にさらされつつ、囚人として余生を過ごす。看守らは、子供を解放しようとする試み、あるいはその呼びかけがあった場合は、直ちに彼を殺すように指示されていた。
この子供はアイデンティティーを剥奪され、コミュニケーション能力はおろか名前そのものまで奪われた。看守でさえ、この「名前のない者」と話すことを禁じられた。子供はこのように呼ばれていた。
イワンの苦難と生涯は、1764 年 7 月 5 日に突然、終わりを告げた。このとき、ロシア帝国陸軍の将校が囚人の正体を知り、廃帝を復権させようとしたのである。しかし、シュリッセリブルク要塞監獄の看守は、不吉な指示に従って行動した。すなわち、陰謀について知るや直ちに、若い廃帝を殺した。
「パーヴェル1世の暗殺」
Public domain1801 年 3 月 11~12 日の夜、サンクトペテルブルクのミハイロフスキー城で、皇帝の寝所に通じる扉が破られ、12 人の共謀者が乱入した。彼らは、皇帝が退位を拒んだことに憤激して、彼に襲いかかり、殴打したうえ絞殺した。
「アレクサンドル2世の暗殺」
Public domainテロリストと革命家たちは、ロシア皇帝アレクサンドル 2 世の治世中に 11 回も暗殺を試みた。その際に、拳銃、回転式拳銃、ダイナマイト、手爆弾などを用いた。皇帝は幸運にも、すべての弾丸と爆薬から逃れたが、最後の1回が致命的となった。
さまざまな武器を駆使した暗殺の試みが10回立て続けに失敗した後、テロリストらは爆弾を選択した。それを、皇帝が馬車で通過したときに投げつけることにした。
こうして1881 年 3 月 1 日、地下テロ組織「人民の意志」のメンバーが、ツァーリの馬車に爆弾を投げた。信じ難いことに、このときもアレクサンドル 2 世は生き残った。だが、拘束されたテロリストと話したいと思った彼は、すぐに立ち去らず、共謀者による再度の攻撃を受ける。
2 人目のテロリストがツァーリの足元に爆弾を投げ、爆発で 2 人とも致命傷を負った。アレクサンドル 2 世の両足は粉砕された。彼は瀕死の状態で冬宮に運ばれ、間もなく死亡した。
「ニコライ2世と家族の殺害、エカテリンブルクにて」
Mary Evans Picture Library/Global Look Pressロシア帝国のラストエンペラーは、1918 年 7 月 16~17 日の夜、エカテリンブルクのイパチェフ館の地下室で銃殺隊によって処刑された。彼の家族――妻アレクサンドラと 5 人の子供たち、および使用人ら――も共に処刑。
ボリシェヴィキ政権の一部は(たとえば、レフ・トロツキー)、元皇帝の公開裁判を計画していた。しかし、退位した君主を解放し復権させる反革命の企てが考えられた。それが元皇帝一家の運命を決したに違いない。
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