「突然、暗闇の中から、照明が明るく輝く通りに入った。2 つの街灯は、灯油ランプから白熱灯に変わり、明るい白色光を放射している。集まった人々は、驚喜して、この『天からの火』、『火のない光』に見惚れていた。サンクトペテルブルク市民は、すぐに電灯をこう呼ぶようになった」
当時の人は、ロシアでの白熱灯の最初の公開テストについて、このように記している。1873 年、ロシアの科学者、アレクサンドル・ロドゥイギンは、自分の発明が確実に機能することをたしかめようと、サンクトペテルブルクのオデッサ通りで、街灯に電気で点灯した。とはいえ、当時は、この出来事がロシアの照明における新たな発展段階を画すことになろうとは、誰も思い及ばなかっただろう。
すべてはランプから始まった
こうした見事なプレゼンの後、ロドゥイギンの名前は世界中で知られるようになった。成功の波に乗って、彼は、「ロシア電気照明会社」を立ち上げた。チームは、野心的な目標を設定する。まずはサンクトペテルブルクの個々の地区の照明を、次いで同市全体のそれを実現することだ。
しかし、同市のガスおよび灯油の照明を手がけていた地元業者たちは、この実入りの良いビジネスを手放すつもりはさらさらなかった。おまけに、ロドゥイギンは、政府の覚えがめでたくなく、革命家に親近感をもっていたことが知られていた。
一方、ロシアのもう一人の科学者、パーヴェル・ヤブロチコフも照明器具の研究を行っていた。彼は、ロドゥイギンよりも明るい「電気蝋燭」を製作。ヤブロチコフのチームは、自分たちを本格的にアピールするために、ロドゥイギンよりも大規模なプレゼンを行う必要があった。
チャンスは1879年に訪れた。サンクトペテルブルクでリテイヌイ橋が開通したとき、地元の「ガス業者」は、橋の照明を許可されず、ヤブロチコフがそれを手にした。
このイルミネーションは成功したが、ヤブロチコフは、自分の発明によりロシアで収益を上げることはできなかった――彼の会社はすぐに「燃え尽きて」しまったから。にもかかわらず、電気照明は、サンクトペテルブルクの生活に根付いていった。
「日暮れ時になると、これらの街灯は、いまや点灯者なしで、ネフスキー大通りとボリシャヤ・モルスカヤ通りに沿って一斉に灯った。最初、何かがパチパチと音を立て始め、わずかな輝きを発する。すると、乳白色の卵がほんのり紫色に変わり、薄紫色の震える光とともに、蜜蜂の鳴き声を思わせる、何となく物思わしげな音が、通行人の頭上に降り注ぎ始める」。作家レフ・ウスペンスキーは、初期の電灯をこう振り返っている。
外国人によるロシアの電気照明
19世紀には、外国人起業家がますます頻繁にロシアを訪れるようになった。彼らは、この広大な国に新市場を見出した。たとえば、ドイツの発明家・実業家でシーメンス社の創業者、エルンスト・ヴェルナー・フォン・シーメンスもそうだ。彼は、ロシア政府からロシアとヨーロッパを結ぶ電信網の建設を委ねられた。
彼は兄弟たちといっしょに、ロシアにおける子会社「シーメンス・ウント・ハルスケ電信建設会社」を創設し、事業を始めた。関税が高いため、輸入部品を使用せずに、ロシアで事業を展開することが決まった。
1882 年、「シーメンス・ウント・ハルスケ」社は、モスクワ開催の全ロシア芸術産業博覧会で、自社製品のサンプルを発表した。展示パビリオンの近くには、ミニ電鉄があり、小さな列車が走っていて、皇帝アレクサンドル3世とその家族も何度か乗った。
皇帝は、博覧会に出品されたすべての製品がロシアで作られたことを大いに喜び、直ちにシーメンスに、「宮廷御用達」の称号と、「双頭の鷲」を商標として使用する権利を与えた。
その数か月後、アレクサンドル 3 世は、シーメンス兄弟の会社に対し、1883 年 5 月 15 日に予定されていた戴冠式の日のイルミネーションを依頼した。そのために特別に、移動式発電所が作られ、モスクワのクレムリンとイワン大帝の鐘楼に電力を供給することができた。戴冠式は壮大華麗に行われた!戴冠式の公式報告には次のように記されている。
「人々は、堤防沿いに黙然と立っていた。多くの人がモスクワ中心部への下り坂の階段に腰を下ろし、この世とも思えぬ光景に無言で見入り、すっかり魅了されていた…。ルビー、サファイア、ダイヤモンドさながらに、高い塔の灯りが輝き始めた。クレムリンの反対側の堤防全体が、金色の花輪の途切れぬ鎖に変わった。歩道そのものに設けられた12 の高い噴水が虹色の光で輝いていた。設置された多数のボードに、美麗な頭文字、盾、碑文が照らし出されている。やがて、豪壮な大クレムリンの番が訪れた。何百万もの光が、その金色の頂点で輝き、その日の偉大さと神聖さを厳粛に証明した…」
1886年、シーメンス兄弟は、「電気照明会社」を設立した。この会社は、間もなく電気照明の分野でロシアの主要な企業になる。しかし、保守的なロシア社会は長い間、照明の新時代が到来していることを認める用意がなかった。多くの人が、コストが高いことを理由に大規模な電化に反対した。
しかし、モスクワの商人たちは、店のショーウインドーや広告看板に電球を使用して、電気照明に「金鉱」を見出した。実際、こういう電気の利用は、一般大衆に喜ばれ、多くの人々がこれらの商館を喜んで訪れた。一部の文化施設も電気を無視していなかった。
たとえば、モスクワのコルシュ劇場は、その舞台に電気照明を導入し、信じ難いほどの結果をもたらした。ボリショイ劇場にいつも通っていた人々が、それより頻繁にコルシュ劇場の公演に行き始めたのだ――電気の革新を自分の目で見るために。
「電気照明会社」の創設から 2 年後、モスクワ初の発電所「ゲオルギエフスカヤ発電所」が稼働した。その出力は、現代の基準からすればごく低く、わずか10 kWだった(今日、モスクワ最古の発電所、スミドヴィチ記念第1国営発電所の出力は86 MWだ)。しかし、19 世紀末のロシア帝国にとって、これは真のブレークスルーだった。
電灯の花輪
その間、皇室は、シーメンス兄弟の会社の事業を注視していた。将来の皇帝ニコライ 2 世は、戴冠式の際に誰に照明を任せるべきか弁えており、その選択を一瞬たりとも疑うことはなかった。
そして1896 年、ロシア帝国にとって一大イベントが行われた。ロシア社会は、これほど「明るい」戴冠式を目にしたことがなかった。瞬く間にクレムリンは、何千もの電灯に照らされ、国全体にその光が見えると思われたほどだった。
ウラジーミル・ジュンコフスキー将軍はこう回想している。「…クレムリンのイルミネーションは、陛下が、渡された電球付きの花束を手にしたまさにその瞬間に、点灯された。花束が明るく輝くと同時に、クレムリン全体が色とりどりの電灯で照らされた。あたかも、暗い空に燃える筆で描かれたかのように…」
ロシアにおけるかなり急速な電化の開始は、近い将来に電気が広く使われることを予感させた。 しかし、実は、ロシア帝国は、そうした革新に対してまったく準備ができていなかった。集中型電源システムを構築できる大規模な発電所は、ロシアにはなかったからだ。そこで、「電気照明会社」の面々は、ロシア全土に火力発電所と水力発電所を建設する計画について考え始める。
1914 年の時点で、ロシアには約 80 の水力発電所しか稼働していなかった。しかも、第一次世界大戦、それにつづく20 世紀初めのロシアの政治情勢の悪化により、シーメンス社は同国を離れた。もちろん、電化はロシアにとって緊急課題であり続けたが、その解決は、ロシア革命後に成立した新しいボリシェヴィキ政権が担うことになる。