ロシアの自転車部隊:どんな場合に何と戦ったのか?

歴史
ボリス・エゴロフ
 ロシアの「自転車部隊」の幾人かの将兵は、「クレムリンの壁」に埋葬されている。モスクワには、彼らの栄誉を称えて、彼らの名を冠した通りさえある。

 彼らは、素早く、静かに、敵の意表を突いて敵陣に近づき、痛打を与え、すぐさま姿をくらますことができた。20世紀初め、騎兵隊はすでに時代遅れとなっていたが、自動車化歩兵はまだ出現していなかった。その当時、世界各国の軍隊では、自転車部隊が大いに普及していた。

 自転車は、餌を食わせたり、給油したりする必要はない。特別な修理も必要ない。人が運べないような、ある程度の荷物も運べる。騎兵隊と同じ速度(時速 6~12キロメートル)で移動し、1 日あたり最大120キロメートルの距離を移動できた。必要なのは、良い道路と温かい天気だけだ。

 ロシア帝国の自転車部隊の将兵は、「サモカートチク」と呼ばれていた。最初の自転車部隊は1891 年に登場した。彼らは、自分たちの「鉄の馬」を後に残して、通常の歩兵のように戦わなければならなかったが、速度と機動性に優れていた。1917 年までに、ロシア帝国陸軍では自転車部隊の中隊が30以上つくられた。

 自転車部隊は、小火器、機関銃、迫撃砲、手榴弾で武装していた。それらは、特殊な金具で自転車のフレームに取り付けられていた。装備と弾薬の一部は、大きめのバッグに入れて運べた。

 当初、自転車部隊には、フランスのプジョー社の「ジェラール」(*アンリ・ジェラールが考案したフランスの軍用折畳み式自転車)が使われていた。しかし、第一次世界大戦中、ロシアの発明家ミハイル・シチパノフの戦闘用「ドゥクス」に代えられた。

 第一次世界大戦の戦場では、ロシアの自転車部隊は、偵察と通信のほか、騎兵と歩兵の掩護に使われた。自転車部隊はまた、その静かさを生かし、敵に対して効果的な夜襲を展開した。

 さらに、司令部は、防御の弱点を補うために、機動力のある予備部隊として、あるいはその逆に、敵陣を突破して、速やかに「橋頭保」を築くために、自転車部隊を利用した。

 なお、自転車部隊は、その特徴からして、基本的に捕虜は取らなかった。

 自転車部隊は、1917 年のロシア革命に際し、一連の出来事でヒーローになった。11月、モスクワで、ボリシェヴィキの新政権の支持者と反対派の間で戦闘が起きたとき、市内に駐留していた自転車予備大隊がボリシェヴィキ側についた。この部隊の死亡した3 人の軍人がクレムリンの壁に埋葬されている。そして、ノヴォブラゴスラヴェンナヤ通りは、彼らに敬意を表して、サモカトナヤ(自転車)通りと改名された。

 自転車部隊は、ロシアで内戦が発生すると、盛んに使われた。君主制を支持する白軍には、第一次大戦の連合軍が「鉄の馬」を供給し、一方、ボリシェヴィキ政権は主に国民から自転車を接収した。1919 年 8 月 1 日、同政権はいわゆる「自転車動員」を宣言しさえした。

 第二次世界大戦中の赤軍では、自転車は、ドイツ軍やフィンランド軍ほど普及していなかった。ソ連では、困難な戦時下の状況では、工業が自転車を大量生産する余裕はなかった。そこで、この種の輸送手段の補充に関する問題は、主に戦利品の利用で解決された。

 第二次世界大戦では、戦争は既に機械化されていたので、自転車部隊は、事実上、実戦には参加していなかった。ただし、例外もあった。たとえば、「第1二輪車旅団」だ。これは、自転車連隊とオートバイ連隊に装甲中隊が加わっていた。この旅団は、1942 年の夏~秋に、ルジェフ付近(トヴェリ州中部)で敵と激戦を繰り広げた。

 第二次世界大戦中は、自転車部隊は、まだ特別任務や偵察任務に関わることがあったが、主に、通信を担当した。「私はしょっちゅう連隊と師団の司令部の間を往復しなければならなかった」。当時、前線にあったウラジーミル・フォミンは振り返る

 「例によって『出撃』するときは、封印された封筒と、命令書の入った小包、それに報告書を持参し、それらを手榴弾のまわりに巻きつけた。これは、危険が明白な状況になったときに、手榴弾を爆破して、我々に委ねられた司令部の極秘文書を隠滅するためだった(もっとも、こういう状況になったことはなかったが)」。

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