ミハイル・ゴルバチョフ(1931~2022)自身の回想によれば、「長年にわたる国の歴史を見直す長いプロセス」は、彼がまだ学生だったときに始まった。1985 年 3 月 11 日に彼がソ連共産党中央委員会書記長(事実上の最高指導者)に就任したことは、ソ連のノーメンクラトゥーラ(支配層)にとって驚きではなかった。ゴルバチョフは、当時の書記長レオニード・ブレジネフと良好な関係にあったし、その他の指導部も彼を庇護、支援していた。そして彼自身も、ソ連の農業大臣としての職務を成功裏に遂行したからだ。
西側にとってもソ連国民にとっても好感が持て、野心的な若き指導者から、多くの人が変化を期待していた。
「私は、ソ連共産党中央委員会書記長という実質的に国の最高のポストを受けた際に、次のことを理解していた。我々は、このような生活を続けていくことはできないと。そして、もし抜本的な改革の実施において私が支持されない場合は、私はこの職務にとどまることはすまいと」
彼は、後の1991年、連邦が崩壊した年にこう述べている。「平和プロセスにおけるその主導的役割に対して」ノーベル平和賞を受賞してから1年後のことだ。
大改革への賛否両論
抜本的な改革が行われていくが、それらのすべてが受け入れられ、理解されたわけではない。反アルコール・キャンペーン、いわゆる「ウォッカで死にかけている国」における飲酒に対する戦いは、「ペレストロイカ(建て直しの意味)」への道におけるゴルバチョフ書記長の最初の痛みをともなう一歩となる。これに続いて、大規模な人事刷新と政権党(共産党)の若返りが行われる。そして間もなく長期の一党独裁体制に終止符を打つ。
ソ連共産党は唯一の指導機関としての憲法上の地位を失い、民主主義モデルに従って選挙が行われ、異論への迫害は止む。ゴルバチョフは、反体制物理学者アンドレイ・サハロフの流刑を解き、ニキータ・フルシチョフの下ではまだ終わっていなかった、スターリン大粛清の犠牲者の名誉回復を続ける。
ゴルバチョフの主要な功績は、グラスノスチ(情報公開)の開始と検閲の廃止だろう。彼の下で、新聞の発行部数は数百万部を超え、党と政権は初めて批判の対象となる。グラスノスチと民主化はまだ言論の自由や民主主義そのものではなかった。しかし、ゴルバチョフの改革がなければ、それらへの道のりは長すぎただろう。
しかし後に、ゴルバチョフは、自分が国民に贈ったグラスノスチにより、非難の槍玉に挙げられることになる。たとえば、ソ連崩壊につながった民族意識の「火山」を覚醒させたのは他ならぬグラスノスチのせいだ、という批判もあった。ゴルバチョフの政治経歴の主要な「汚点」の一つ、チェルノブイリ原発事故についても、グラスノスチがなければ、ソ連と世界はおそらく、すぐに知ることはなかったはずだ、と言う者もいた。さらに、他の「汚点」の中に、今日まで続くナゴルノ・カラバフ紛争、アゼルバイジャンへの派兵、アルマ・アタ(現アルマトイ)での集会の強制解散などがあった。
ペレストロイカとゴルバチョフとは何であったか?
しかし、世界は確かに、ゴルビーを、軍拡競争を止め、地政学的および環境的な大変動を防ぐために「悪の帝国」を同盟者に変えた男として記憶している。「外交の新思考」を宣言し、ドイツの再統一とアフガニスタンからのソ連軍撤退のプロセスを始めたのは彼だ。
かつては完全にユートピア的に思われた理念を打ち出したのも彼だ。すなわち、2000 年までに核兵器を廃絶し、国際安全保障システムを構築し、その後で、アメリカと第一次戦略兵器削減条約(START I)と中距離核戦力全廃条約(INF全廃条約)を結ぶ。
彼に反対する人々は、マルタ会談について再三言及する。この会談で、冷戦は、外交レベルでは終結したのだが、彼らは、ゴルバチョフの西側への「偏向」を非難する。
これに対して、ゴルバチョフは次のように言っただけだった。
「我々は、理解されることを望んでいる。…これは、他者と全く同じになるという意味ではない」。つまり、他者から理解されるようになりたいだけだ、ということだ。
ゴルバチョフは、大統領辞任後も、国のその後の展開を見守り続け、ゴルバチョフ財団やグリーンクロス・インターナショナルを設立し、政界の表舞台への復帰を試みるが、大統領選挙ではわずか0.51%の得票率しか得られなかった(国民は、彼をソ連崩壊の張本人とみなし、決して許さなかった)。ソ連の唯一の大統領は、当然の成り行きとして、ロシア連邦初代大統領であるボリス・エリツィンと激しく対立するが、その後、エリツィンの後継者であるウラジーミル・プーチンを支持する(もっとも、支持した期間は長くなかったが)。そして、自分を省みて、分析し、いくつかの過ちを認める。
「ペレストロイカは勝利した!私は政治家として負けただけだ」。彼は2009年にこう総括した。もっとも、ずっと以前の1991年に、彼は既に、自分の主要な結論の一つを出して、表明していたかもしれない。
「我々の生きる現実は、それをより良くするための最も完璧な計画よりもはるかに豊かで複雑だ。結局、現実は、たとえその計画が善意によるものだとしても、計画を無理やり押しつけたことに対して残酷に復讐する」。