日記や回想録で見るソ連崩壊:人々は1991年12月25~26日をいかに迎えたか

Peter Turnley/Corbis/VCG/Getty Images
 1991年12月26日朝、ソ連国民が目覚めたとき何が起きたか?前日12月25日にソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、ソ連は解体した。連邦崩壊後の最初の日々に、さまざまな職業や社会的地位にある人々が日記やメモを残しており、ロシア・ビヨンドはそれらを集めてみた。

セルゲイ・エシン、作家

 木曜日。ゴルバチョフは昨夜辞任し、テレビで演説した。私は見なかった。私がこれ以上軽蔑してきた人間はいない。私は「模倣」の専門家だが、彼こそ私の主人公だ。私の夢は、国民の名において彼に平手打ちを食らわすこと。

1991年8月のクーデターが失敗した後記者会見に出席したミハイル・ゴルバチョフ

 …すべてが忌まわしく最悪だ。銀行に預けていたお金が消え、生活はいよいよ苦しくなっていく。一昨日の日曜日、夕方8時ごろに中庭で、何者かが私の車のフロントガラスを壊した。それをはめるために、私はまる2日間悪戦苦闘した。

ウラジーミル・ベッソーノフ、歴史学者 

 新年が近づいてくる。最近の事件と言えば、ベロヴェーシ合意、「事実上の」ソ連崩壊、昨日のゴルバチョフの演説だ。ゴルバチョフは今や、ありとあらゆる暴露がなされ、誹謗中傷を受けている(これは、わが国民の病と言ってもいい。やり返せない人間を足蹴にする。足蹴にしても、何の後腐れもないからだ)。

 彼はもちろん、左からも右からも思い切り「噛みつかれる」。かわいそうなミハイル・セルゲーエヴィチ(ゴルバチョフ)!(『独立新聞』の今日の報道によれば、あるカジノの所有者が彼に100万ドルの報酬の仕事をオファーしているそうだ!) 

 誰もが「価格の自由化」を戦々恐々として待っている。店は空っぽだが、人々が本当の恐怖を味わうのは正月休みの後だろう。朝、彼らが目覚めると…実際、新年にはすべてが一変していて、私は失業するだろう。(滑稽なことに!)私の今の月給(270+60ルーブル)は、失業手当(342ルーブル)よりも少ないが、シャンパン1本は、露店で150ルーブル、ジャケット(ダウン)は、6,500~7,000ルーブルもするし、シャツ1枚でさえ300~400ルーブルだ。

モスクワのスーパーに並んでいる行列、1991年

 今、「ラジオ・ロシア」で、女性アナウンサーがしみじみとこう言った。「私たちは、自分たちの心をすっかり忘れてしまった。長時間行列に並んでやっと買った美味しいソーセージも、抒情的な歌が与える高尚な感情には代えられない」。これに続いて、ジャンナ・ビチェフスカヤの歌が流れた。

 ちなみに、ロシア革命直後の1918年のこと、国民が飢餓で苦しんでいるときに、新聞各紙は厚かましくも、断食、ダイエットの効用について書いたものだ。 

リュドミラ・ポリャコワ、女優

 来る空腹の1992年の前夜、過食が続いている。食べ物はあるところにはある。こんなに食べまくったことはないような気がする。こうやって、将来のために食いだめしているわけだ。主よ、我らを許したまえ。わずかなりとも人間らしい尊厳を保てるように、我らを助けたまえ!

オレグ・アミトロフ、古生物学者

 祖母はもう政治に興味をもたなくなった。私が(夜に)テレビの電源を入れると、祖母は、前みたいに音量を上げてくれとは言わず、もっと静かに、と頼む。クレムリンの上に、赤旗の代わりに三色旗が掲げられ、外国のソ連大使館はロシア大使館に変わった。

ヴィケンチー・マトヴェーエフ、ジャーナリスト

 あの慌ただしさは、いかにもという感じだった。今朝、エリツィンは、クレムリンにあるゴルバチョフの執務室を引き継いだ。さて、ボリス・ニコラエヴィチ(エリツィン)、あなたの治世はどんな状況で終わるのか?面白い見ものだ。

ユーリー・ポミノフ、ジャーナリスト 

 12月25日、夜、中央テレビ局のニュース番組の最後にゴルバチョフが演説し、「根本的な事柄を考えたすえ」、辞任すると発表した。ドラマと茶番のどちらが余計にあったか分からない。こういう国の最初の(そしてたぶん最後の)大統領が、こんな形で政治の場を去るべきなのだろうか?

モスクワで行われたデモにて、1991年12月25日

 ゴルバチョフが短い声明を読み上げて、喉を潤そうとしたが(その理由は確かにあった!)、手に取ったグラスは空だった。

匿名

 モスクワで、モスクワ大学の地下に、12万人が住める地下都市が見つかった。ホテル、店、その他すべてがある。クレムリンからこの都市へは地下鉄が通っている。食料の備蓄は、25~30年分は十分まかなえる。これは、戦争が起きた場合に、ソ連の指導部のために用意されていた。

アナトリー・チェルニャエフ、ゴルバチョフ大統領の国際問題担当補佐官

 ゴルバチョフは、12月25日水曜日に最後の「演説」を行うことにした…。しかし、演説の全文を載せた新聞は1つもなかった。誰もがエリツィンを怖がっている。

 朝、ゴルバチョフは、(17時に)ブッシュと電話で話せるようにしてくれ、と頼んだ。アメリカはクリスマスだが、パーヴェル・パラジチェンコ(*ゴルバチョフの通訳――編集部注)は、キャンプ・デービッドでブッシュを見つけた…。ブッシュは同意した。

ミハイル・ゴルバチョフがクレムリンの執務室にて

 ゴルバチョフは、非常な親しみを込めて話した――「ロシア式に、友達のように」…。ブッシュもまた、初めて抑制を「かなぐり捨て」、たくさんの誉め言葉を口にした。その賛辞の多くは、後に彼の演説にそのままとり入れられた。それは、ソ連の終焉とゴルバチョフの意義に関する演説だった。

 41号室(執務室の隣)は、ゴルバチョフがふだんテレビカメラの前で話す部屋で、多くの記者が集まった。だが、こういう場合にはよくあることだが、恥ずべきことに、彼を取り巻いたのは西側のジャーナリストだけだった。彼らが群がったことは、全世界にとってのゴルバチョフの重要性を示していた。西側の社会は、彼の意義を正しく評価している。

 私は、ゴルバチョフから8~10㍍離れて脇に立っていた。生中継だ。彼は落ち着いていた。時々遠慮せずに原稿を見た。「一発で」うまくいった。その後、「身内たちに」いくら感想を聞いても、それは一致していた。すなわち、尊厳と高貴さ。

 ゴルバチョフは、確かに悲劇的な人物だ。もっとも、「日常的に」彼に会うことに慣れている私にとって、彼をこのように形容するのは難しい。それでも彼は、「悲劇的」という言葉を冠せられて歴史に残るだろう…。

 午前8時15分(*翌日の――編集部注)、エリツィンとその取り巻きは、ゴルバチョフの執務室の応接室に現れた。当番の秘書に向かって、エリツィンは「さあ、見せてくれ!」と命じた。そして執務室に入った…。

ボリス・エリツィンが執務室にて

 「このテーブルには、大理石の筆記用具一式があったじゃないか…。どこにあるんだ?」

 秘書は震えながら説明した。「そんなセットはありませんでした…。ミハイル・セルゲーエヴィチは、こんなペンは使ったことがないと言うので、私たちは彼のために、マーカーのセットをテーブルに置いていました…」

 「まあ、いいや…。あそこには何があるんだ?」。エリツィンは奥の部屋(休憩室)に入った。 彼はテーブルの引き出しを開け始めた。そのうちの1つに鍵がかかっていた。

 「なぜ鍵がかかっているんだ?!守衛を呼べ…」

 誰かが鍵を持って飛んできて、開けた――それは空っぽだった。

 「まあ、いいや…」

 その一団は笑いながら、どやどやと執務室を出て行った。去り際に、エリツィンは秘書にこう言った。

 「気を付けろ!今日のうちに戻って来るからな!」

タチアナ・コロビイナ、教員

 朝、私はすごすごと家に戻った。通りには、パンを求めて長蛇の列が伸びていた。建物の角を曲がってさらに続いていた!昼過ぎになると、パンは払底した。昨日は、多くの地区にパンがなかった。いや、まったく「今日の暮らしは愉快だ。明日はもっと愉快になるぞ」というわけ。でも、我が家は良い!タマネギ炒めて、マカロニといっしょに食べた。おなじみの推理小説を読んで、ニュースを見た。

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