極東共和国の興亡:なぜレーニンは極東に独立国家を創ったか(写真特集)

歴史
ボリス・エゴロフ
 ロシア革命後に成立したボリシェヴィキ政権は、その領土内に「独立した」極東共和国の形成を許し、しかもあらゆる方法でそれを支えた。この国には、公式にバイカルからサハリンにいたる広大な領土が含まれていた。

 ロシアの血なまぐさい内戦の間に、独立した極東共和国がその東部に現れた。驚いたことに、この国は、ボリシェヴィキ政権そのもののイニシアチブで形成された。ボリシェヴィキは、領土を犠牲にして新しい国家を創ることで、日本の進出を食い止めようとした。日本は、ロシアの極東全体を支配下に置こうと目論んでいたからだ。では、レーニンの巧妙な計画はどのようなものだったのか?

 日本は、イギリスをはじめとする連合国の、ロシアへの大規模な介入に参加した。1918年3月3日にソビエト・ロシアとドイツの間でブレスト・リトフスク条約が結ばれ、ソビエト・ロシアは、第一次世界大戦から離脱した。これに連合国は不満で、君主制復活を目指す白軍に加担した。白軍の指導者たちは、ボリシェヴィキ政権を打倒して自分たちが権力を握った暁には、最後の勝利を収めるまでドイツと戦う、と連合国に約束していた。

 ヨーロッパの連合国の部隊は、ロシアのさまざまな地域に上陸したが、主にロシアの白軍の後方にあって、赤軍と公然と戦うことを急がなかった。

 しかし、1919 年半ばには、欧米の連合国は、ロシア領からの軍隊の段階的撤退について考え始める。第一次世界大戦はとっくに終わっており、レーニン政権の崩壊への希望は日々薄れていた。だが、日本は、ロシア領から去るどころか、逆に、ロシアにおける軍事的プレゼンスを盛んに増し始めた。日本にとって、ロシア内戦は、千載一遇のチャンスを与えていたからだ。

 「世界大戦は、日本に予期せぬ贈り物、手つかずの宝物を与えた――シベリアがそれである。日本は…シベリアの財宝を手に入れねばならない…。日本のシベリア掌握は――侵略ではなく経済的な意味においてだが――その成否は、日本の腕次第だ」。「国民新聞」編集部長、石川六郎はこう書いた。 

 日本はゆっくりと、しかし確実に、極東と東シベリアの領域を支配下におさめ、直接行動することもあれば、グリゴリー・セミョーノフやイワン・カルムイコフのような、コサックのアタマンを介して行動することもあった。「日出ずる国」の拡張を抑制するものがあったとすれば、それは、民衆が公然と蜂起する可能性への懸念と、地政学的なライバルの強化に反対するアメリカの厳しい立場だけだった。

 長い間、モスクワの中央政府にとって、極東は二義的な意義しかもたなかった。激戦は、ヨーロッパ・ロシアで繰り広げられ、日本と戦っていたのは、散在する赤軍のパルチザン部隊だけだった。

 しかし、1919 年春から 1920 年初めにかけて、赤軍は、東部戦線の白軍を撃破し、ウラル山脈を越えてシベリアの奥深くまで迅速に進撃。ついにバイカル湖に迫った。これを越えれば、日本軍の駐屯地はもう間近だった。

 だが、当時進行中のポーランド・ソビエト戦争と、ロシア南部に展開するアントン・デニーキン中将麾下の白軍の大部隊を考慮すれば、日本との公然たる軍事衝突は、ボリシェヴィキにとって最悪の結果に思われた。 

 「シベリア奥地で愚行に走れば、我々はバカを見る。その間にデニーキンは息を吹き返し、ポーランド軍は攻撃する。犯罪的な愚策だ」。レーニンは、1920 年 2 月にソビエト共和国革命軍事会議議長レフ・トロツキーに電報を打った

 ソビエト・ロシアと日本の支配領域の中間地帯に緩衝国家を創る考えが生まれたのはその時だ。当時、「誰のものでもない」領域で、多くの親ソビエト勢力が活動していたが、彼らは、ソビエト・ロシアの中央政府の提案により、1920 年 4 月 6 日、極東共和国の創設を宣言した。これは、形式的には、ソビエトから独立していた。

 この新国家は、形の上では、バイカル湖からサハリン北半分までの広大な領土を含んでいたが、実際には、それらのかなりの部分は、白軍と日本の支配下にあった。

 この時点では、極東共和国の創設は、誰にとっても好都合だった――ソビエト・ロシア、米国、ソビエトの勢力拡大を恐れるシベリアの反ソ勢力、そして日本にとっても。日本は、直ちに支配領域でのボリシェヴィキ分子の掃討を始め、いずれはこの新国家を従属させようと考えていた。

 ただし、赤軍のパルチザン部隊の指揮官のなかには、抗議を表明した者もいた。ボリシェヴィキ政権は、この一時的な措置の必要性を納得させるために大いに努めなければならなかった。

 極東共和国には、憲法、国章、国旗、通貨(極東共和国ルーブル)があり、立法、司法、行政の三権も形作られた。「ああ、あれは楽しい共和国だった!」。作家・ジャーナリストのヴィクトル・キーンは、次のように回想している

 「各派閥が議会で怒号していた。あるいは何かを提案し、同意していた。議長は『静粛に!』と叫んでいた。議長の上には、ほぼソビエト風の紋章が掛けられていたが、鎌と槌の代わりにつるはしと錨があった。国旗は赤かったが、左上の隅に青い四角がある。軍隊は、五芒星を用いていたが、半分は青、半分は赤だ。そして、共和国全体がまさにこういう中間的なものだった」

 1920 年 7 月、極東共和国政府の首班アレクサンドル・クラスノシチョーコフがレーニンに、共和国の体制はどうあるべきかと尋ねたとき、レーニンはこう答えた。「共産主義者が多少の特権をもつなら、民主主義でもよろしい」

 しかし実際には、この国の指導部ではボリシェヴィキが常に大多数を占めていた。

 ソビエト・ロシアの中央政府は、極東共和国を資金と物資で盛んに支援し、人民革命軍の武装強化に努めた。この軍隊は、正規軍と多くのパルチザン部隊を統合し、1920 年 11 月には10 万人を数えていた(ロシアに展開していた日本軍と同数だ)。

 赤軍の軍司令官たちが当地に送られ、指揮官となった。そのうちの 1 人、ワシリー・ブリューヘルは、極東共和国の陸軍大臣、および人民革命軍総司令官となった。彼は、1935 年にソビエト連邦元帥に昇進したが、その3 年後に「大粛清」として知られる大規模な弾圧で銃殺刑に処せられた。

 人民革命軍は、日本軍と戦う権限はなかったが(とはいえ、その傘下のパルチザン部隊は、依然として、日本軍と対峙していた)、極東の白軍の残党を積極的に排除した。

 1920年10月までに人民革命軍は、アタマンのセミョーノフ軍をザバイカル(バイカル湖東方の地域)から一掃することに成功し、首都をヴェルフネウディンスク(現在のウラン・ウデ)から、解放されたチタに移した。さらに、これに先立って、極東共和国は、外交的手段を駆使して、日本軍をこの地域から駆逐することができた。

 数年間で、ロシアの極東における「日出ずる国」の勢力圏は、最小にまで縮小する。対パルチザン戦に苦しみ、日本軍は、次々と拠点を失った。日本政府は、ボリシェヴィキの勢力が今や侮りがたいのを悟り始めた。そして、この勢力の前衛が極東共和国の人民革命軍なのだった。

 1922 年 2 月、人民革命軍の部隊は、白軍からハバロフスクを解放し、同年 10 月 25 日には、ウラジオストクから日本の守備隊が撤退すると、直ちにその後、同市に入った。日本の手中に残ったのはサハリン北部だけだったが、1925年に返還を余儀なくされた。

 こうしてロシア東部が白軍と干渉軍から解放されると、極東共和国の存在はもはや必要ではなくなった。1922 年 11 月 14 日、極東共和国の人民議会は自ら解散することを宣言し、ソビエト・ロシアにこう要請した。「極東を単一国家、ソビエト社会主義ロシア共和国に編入してほしい」。要請は直ちに実行された。

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