ロシアの極東があわや日本に併合:シベリア出兵の起こりと顛末は(写真特集)

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 ロシア革命後の内戦は、日本にとって千載一遇のチャンスとなった。日本の政治、軍事上の狙いは、ロシアの太平洋沿岸だけでなく、広大なシベリア全域にも及んだ。

 第一次世界大戦の連合国は、ロシアに大規模な介入を行ったが、これは、ロシアで権力を握ったボリシェヴィキへのイデオロギー上の憎悪が主因ではない。イギリスとフランスがそれよりも懸念していたのは、ウラジーミル・レーニンの政権がドイツとの戦いから抜けるのではないかということだった。そうなれば、ドイツは全力を挙げてフランスを攻撃できるだろうから。

 だから、四分五裂したロシア帝国の廃墟で燃え上がった内戦で、英仏などの連合国が反革命的な白軍に与したことは別に驚くにあたらない。白軍指導者たちは、ロシア軍を戦場に戻して最後の勝利を収めるまでドイツ軍と戦う、と誓った。

日本軍

 1918年3月3日にソビエト・ロシアとドイツの間でブレスト・リトフスク条約が結ばれた直後、連合国の干渉軍は、ロシアの国の北部、南部、東部の港に上陸し始める。しかし彼らは、自分たちには「よそ事」にすぎない内戦において、「火中の栗を拾う」のを急がず、軍事衝突からは距離を置き、わずかな犠牲で、主に他者を通して目標を達しようとしていた。

 こういう状況から見ると、日本は明らかに際立っていた。ロシアの困難きわまる状況が、日本にとって千載一遇のチャンスに見えたからだ。

日本兵が地面に座る

 そもそもの始め、日本はアメリカによって、ロシアの極東への介入に参加するように促された。そして当初は、こうした状況に全面的に関与すべきか否かについて、日本社会の意見は割れていた。しかし、時が経つにつれ、ロシア情勢への「日出ずる国」の介入の規模は、指数関数的に増大し始め、米国はもう、この同盟国の増大する欲求をいかに抑えるかを考え出す。

 「東アジアにおける日本の立場と利害を考えると、日本は東シベリアの秩序回復において主要な役割を果たすべきである」。日本の後藤新平外相は、1918年7月に米国人にこう語っている

米国の少将ウィリアム・グレイブス(前列に左から3番目)と日本の大将大谷喜久蔵、ウラジオストク、1918〜1919年

 1918年4月5日、日本軍の第一陣がウラジオストク港に上陸した。加藤寛治中将麾下の海軍陸戦隊2中隊だった。派兵の理由は、その直前にウラジオ市内で、日本人2人が何者かにより殺害されたことだ。何ら抵抗に遭遇することなく、日本軍は間もなくウラジオストクの港と中心部を支配した。

 「東方から長い間準備されていた帝国主義の一撃が炸裂した」。同日、ソビエト政府はこの行動にこう反応した。「日本の帝国主義者たちは、ソビエト革命を阻止し、ロシアを太平洋から切り離し、広大で豊かなシベリアを支配し、シベリアの労働者と農民を奴隷化しようとしている」  

1918年8月11日に日本軍がウラジオストク港に上陸している。

 「世界大戦は、日本に予期せぬ贈り物、手つかずの宝物を与えた――シベリアがそれである。日本は…シベリアの財宝を手に入れねばならない…。日本のシベリア掌握は――侵略ではなく経済的な意味においてだが――その成否は、日本の腕次第だ」。「国民新聞」編集部長、石川六郎はこう書いた。 

 日本では、ロシアの極東でいかに勢力を伸ばすかについて、議論されていた。最も許容し得る行動の選択肢の1つは、次のように考えられていた。極東から「過激派」――ボリシェヴィキはこう呼ばれていた――を駆逐し、地元の「穏健な」政治勢力を支援し、日本の指導の下でロシアの緩衝国家の出現を促す。これは、ロシア大使、外相などを歴任した外交官の本野一郎の言葉によれば、「独立したシベリア」の建設であった。

 その場合、慎重に行動し、公然と攻撃してはならなかった。そして、欧米の反応に注意しつつ、全国民的な解放運動が起きないようにすべし。

日本軍、ハバロフスク、1920年

 1918年10月には、ロシアの極東における日本軍は、7万2千人を超えていた(これに比して、米国の干渉軍「シベリア」の数は、9千人にすぎなかった)。シベリア鉄道の一部、沿海地方の広大な領域とアムール沿岸は、日本軍の占領下にあり、さらに日本軍は、バイカル湖の東にまで達していた。木材、石炭等の天然資源、鮭やニシンの漁獲物が日本に大量に運ばれ出した。

同盟国の軍の兵士や水兵、ウラジオストク、1918年9月。

 日本の指導部は、グリゴリー・セミョーノフやイワン・カルムイコフのような、気まぐれなコサックのアタマンを主に当てにしていた。白軍のこれらの指揮官は、資金、武器を与えられ、必要とあらば、日本軍から直接の支援を受けた。

 一方、ロシアの「最高執政官」、アレクサンドル・コルチャーク中将は、衆目の一致するところ白軍の指導者だったが、日本との関係は複雑だった。日本政府は、この「米国に糸を引かれた男」が「日出ずる国」の利益を損ないかねないと思っていた。

 「日本は、統一された強力なロシアが速やかに復活することを望まない。中国での日本の活動もそうだが、ここでも、ロシアが完全に疲弊するまで内戦を続けさせようとしている。疲弊した国を搾取するのにより有利な条件を創り出すためだ」。1919年2月にコルチャークのもとで閣僚評議会議長(首相)を務めたピョートル・ヴォロゴツキーはこう書いている

シベリアのオムスクで白軍を視察するアレクサンドル・コルチャーク中将、1919年

 日本軍は、他国の干渉軍とは異なり、当地の赤軍側のパルチザンとの戦いに積極的に参加した。これらのパルチザンは、米国とは一種の「不可侵条約」を結んでいたが、日本軍とは血なまぐさい戦いを繰り広げ、双方で数十人、数百人の犠牲を出した。各種の推計によれば、シベリア出兵の全期間に、計3千人にのぼる日本軍将兵が死亡した。

アムール沿岸では赤軍を攻撃している日本軍

 服従しない住民は、残酷に弾圧され、罰せられた。村全体が焼き払われたり、見せしめに公開処刑が行われたりすることもあった。1919年7月、ある米国人将校は、鉄道駅「スヴィヤギノ」の近くで、日本軍の懲罰的行動を目撃している

 「5人のロシア人が、駅の近くに掘られた墓穴に連行されて、目隠しをされ手を縛られて、穴の端にひざまずくように命じられた。2人の日本人将校が外套を脱いで軍刀を引き抜き、犠牲者の首の後ろから斬り始めた。犠牲者が墓穴に崩れ落ちると、3~5人の日本兵が銃剣で止めを刺し、歓声を上げた。2人は、日本刀の一撃で斬首されたが、残りはまだ生きていたようで、その上にかけられた土が動いていた」

処刑された鉄道労働者の遺体の後ろに立っている日本兵

10. だがその一方で、日本人のおかげで、900人以上のポーランド人孤児の命が救われた。彼らは、革命前にシベリアに流刑されていたポーランド人家族の子供たちだ。内戦の惨禍のなか、両親を失った彼らは、まず日本に連れて行かれ、それから歴史的故郷に送り届けられた。

 さらに日本人は、米国赤十字社が戦闘地帯から約800人のロシア人児童を避難させるのを助けた。この子供たちは、1918年にペトログラード(現サンクトペテルブルク)からロシア東部に疎開し、冬の飢餓の後で療養していたのだが、突然の戦争の結果、自宅に帰れなくなった。ようやくその3年後、彼らは、地球を一周した末に両親のもとに戻ることができた。 

ハルビンにて日本軍、1919年

 1918年11月の第一次世界大戦の終結により、ロシア領に干渉軍が留まることに疑問符が付いたとすれば、その後、1919年の夏と秋にコルチャークとデニーキンの白軍が敗北したことにより、干渉軍の駐留はまったく無意味となった。

 米英仏は段階的に軍を撤退させ始めたが、日本は逆に、この地域での軍事的プレゼンスを高め出した。1920年初めに、ロシア国内の日本軍の総数は10万人を超えていた。

日本兵、1920年

 ロシア東部で白軍が敗北すると、ソビエト政権の赤軍は日本軍と直接対峙することになった。しかし、ソビエト政権はまだ、「日出ずる国」と公然と大規模な戦争を戦う準備はできていなかったため、1920年2月にレーニンは、ロシア東部に民主主義を標榜する緩衝国家を創設する考えを示した。

 日本は、対パルチザン戦で疲弊し、息抜きが必要だったので、このプロジェクトを歓迎した。そして日本は、同年4月6日に設立された極東共和国を自分たちの保護国にできると当てにしていた。

隊員食堂にて日本兵、シベリア

 だが、こうした希望は実現する運命になかった。極東共和国は、ソビエト政権のほぼ完全な支配下にあり、その人民革命軍は極東の白軍に首尾よく止めを刺した。また、ロシアにおける日本占領地で擁立された傀儡政府は独り立ちできないことが判明した。さらにまた、日本政府は、米国から強い外交圧力を受けた。米国は、太平洋における地政学上のライバルの強化を望まなかった。

ウラジオストクを去る日本軍

 結局、「日出ずる国」は徐々に足場を失い始めた。日本軍のしんがりは、1922年10月25日にウラジオストクを去り、早くも同年11月には、極東共和国はソビエト・ロシアに組み込まれた。サハリン北部だけが日本に残ったが、1925年、ソ連との長く困難な交渉の末、返還を余儀なくされた。  

ブラゴヴェシチェンスクの解放を祝うパルチザンのパレード、1920年

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