「サンクトペテルブルクのある小店主は、シベリア種の美しい巨大な猫を飼っていた。飼い主とその隣人たちは、文字通り『猫可愛がり』しており、巡査まで毎回立ち寄っては撫でさするのだった。ところが、突然この猫はいなくなり、店主は嘆き悲しんだ。
しかし、その2日後、店主は吉報を知らされた。ある小公園に猫がいたという。公園で猫は、リボンを結ばれて、ドイツの商船の船長により、海外から持ち込まれた珍しい動物といっしょに25ルーブルで売りに出されているとのこと。
店主は、その船長のところへ駆けつけて、事の次第を説明するが、彼は聞く耳を持たず、『ダンツィヒ、ダンツィヒ』と繰り返す。店主は、『何がダンツィヒだ。ダンツィヒなんかじゃねえよ。これは、俺のムルルイカだ。市場の連中はみんな知ってらあ』と言う。だが、頑固なドイツ人は猫を渡さない。
それで、怒り心頭に発した店主は市場に駆け戻り、隣家の数人と巡査を呼び集める。またもや激論が公園で始まるが、ついに、他のドイツの商船の船長たちの助けも借りて、偽の飼い主から本当の主人のもとに猫を取り戻せた」
モラルを守る探偵たち
このカワイイ都市伝説は、ふつうなら、歴史的な記録に収められるなどまずなかっただろう――もし、「皇帝直属官房第三部」が存在しなければ。これは、店主から公爵にいたるまですべての臣民の生活をたゆまず見守らんとする皇帝の眼だったのだ。
秘密警察のエージェントたちは、街のすべてのゴシップを注意深く集めたので、その文書は、ロシアの生活の宝庫であり百科事典だった。ただ、人々の記憶には、第三部はまったく違った形で残ったが。
1825年12月14日、後に「デカブリスト」と呼ばれることになる名門貴族たちが、皇位継承の遅滞を利用して、軍の蜂起を図り、将来の皇帝ニコライ1世を廃そうとした。
最も過激な者は、皇室を皆殺しにすることさえ提案したが、しかし、帝政の擁護者が勝った。反乱鎮圧において特筆すべき役割を果たしたのが、アレクサンドル・ベンケンドルフ将軍だ。彼は、ナポレオン戦争の英雄であり、皇帝の友人でもあった。反乱の当日、彼は政府軍の一部を指揮し、その後、デカブリストの事件に関する捜査委員会のメンバーとなる。
ナポレオン治下の伝説的な警察大臣ジョゼフ・フーシェの経験に触発されて、1826年にベンケンドルフは、新設の政治秘密警察――皇帝直属官房第三部――の長官となった。さらに彼は、憲兵隊司令官のポストを設けた(そして自分が就任した)。1827年には、別に憲兵隊を組織する。こうして、秘密警察と憲兵隊は、一人の指揮下に統合された。
ベンケンドルフの騎士道風の構想によれば、彼の「生みの子」は、帝位を守り、暴動を鎮め、異議を根絶するだけでなく、まず第一に社会の利益に奉仕すべきものであった。すなわち、公金横領を暴露し、役人の職権乱用、横暴と戦う。
「苦しむ民衆の声を陛下にお聞かせし、自分を守り自分の意見を述べる手段を持たぬ臣民を、直ちに皇帝陛下の庇護下に置くこと」。これが、帝国の憲兵隊長が部下に示した目標だった。
だから、スカーフの伝説が生まれたのは偶然ではなかった。それは、ニコライ1世がベンケンドルフに、その任務の象徴として与えたという。それで不幸者の涙をぬぐうべし、というわけだ。
「第三部」の評判は
当局は、最近まで自由思想家だった人物をこの仕事に引き入れようとした。たとえば、ベンケンドルフは、詩人アレクサンドル・プーシキンを第三部に、そして彼の弟レフを憲兵隊に招いた。
しかし、貴族たちはこの呼びかけへの応答を急がなかった。なぜなら、5人のデカブリストが絞首刑にされ、彼らの同士たち(これも名門貴族)が「シベリアの鉱山の奥深くに…」(*プーシキンの詩)流刑となったからだ。これだけでも、第三部の評判は損なわれ、警察の仕事そのものがロシア社会で深く軽蔑された。
レオンチイ・ドゥベリトは、ベンケンドルフの右腕だが、この2人について、ある同時代人はこう語った。
「この2人を擁護するあらゆる言葉は、その言葉を発した人の汚点となり、その人が奴隷根性の持ち主であるか第三部に近いことを疑わせるだけだ――。こんな時期があった」。ベンケンドルフのある副官は、公の非難を恐れて、彼に仕えることを拒んだという。
当初、第三部に勤務したのは、20人弱だったが、1880年の解体時には72名となっていた。彼らは、外国人、革命家、学生、作家、宗教セクト、貨幣贋造者を監視し、防諜と検閲に従事し、世論の動向および帝国内のすべての重大事件に関する報告を書いた。
この秘密警察には、他にも、意外だが重要な役割があった。すなわち、家庭内の対立を解決することだ。たとえば、1870年に、クノープ憲兵中佐と、その上司で第三部長官だったピョートル・シュヴァーロフ伯爵は、有名な海洋画家イワン・アイヴァゾフスキーの妻ユーリアを保護した。夫はしばしば妻を激しく殴打していたのである。彼らの説諭は、頑迷な画家の興奮を鎮め、不幸な妻と娘たちの安全を確保するのに十分だった。
第三部の顛末
1870年代末には、ロシアでは革命家によるテロが頻発し、第三部はもはや対処できなくなった。 この当時の状況について、転向した元革命家レフ・チホミロフはこう書いている。
「第三部は、弱体でまとまりのない状態にあり、これよりもひどい政治警察は想像しにくい。実際、陰謀家たちにとって、このような警察は温存されるべきだ。こんな警察なら、クーデターの真剣な計画を立てて、奇跡を起こすこともできるだろう…」
皇帝アレクサンドル2世――農奴解放と一連の大改革を行い「解放者」と呼ばれた――は、野獣狩りさながらに、次々にテロの標的になり、暗殺未遂は計11回に及んだ。1880年、この血なまぐさい狩りのさなか、第三部は、その無力さが明白になって廃止され、内務省内の警察に取って代わられた。しかし、この措置はもはや皇帝を救うことができず、1881年3月1日に彼は、イグナチイ・グリネヴィツキーが投げつけた爆弾で死亡した。
年々、革命家によるテロは激しさを増し、新聞の編集局は、新任の知事や総督の死亡記事を前もって準備することもあった。内務大臣に就任することは、自分自身の死刑判決に署名するに等しいこともあった。
そのため、「心優しい」ベンケンドルフの衣鉢を継ぐ、当時の警官たちには、店主とシベリア猫「ムルルイカ」の話のような、日常の些事を記述する時間も精力も欲求も、もはやなかった。