ロゲルヴィク(現在はエストニア共和国のパルディスキ市)で懲役に従事する囚人の平均寿命は3ヶ月未満だった(!)。作家・哲学者・植物学者アンドレイ・ティモフェーエヴィチ・ボロトフは、1755年に当地で勤務についている。彼は、ロゲルヴィク湾の港建設に従事する囚人を警備していた。
ボロトフはこう回想している。「受刑者たちは、銃を装填した兵士の列によって、四方からびっしり囲まれて、仕事に追い立てられた」。囚人たち、柵に囲まれた兵舎に住んでいて、全員が鉄枷をはめられていた。二重、三重にはめられている者もおり、当時は、計千人ほどだった。
囚人たちは、海から絶えず激しい風に煽られつつ、雨、雪、雹が降るなかでも、採石場での労働と港の建設に従事しなければならなかった。
歴史家エレーナ・マラシノワの推計によれば、1753~1756年に、1万3242人の囚人がロゲルヴィクに連行され、そのうち1万3101人が死亡している。
戦略的に重要な港湾
ロゲルヴィクは、現在のパルディスキ市。エストニア共和国の首都タリンから西方52キロメートルに位置する。その最初の名は、スウェーデン語の「Rågervik」で「ライ麦島」を意味する。14世紀からここに住んでいたスウェーデン人が命名した。
ロゲルヴィク湾は、北と北西の方向を除いて、風がほとんど遮られるため、冬に凍結することはまずない。これは海軍にとって非常に重要だ。
レーヴェリ(現在のタリン)の港は、そうではなかった。レーヴェリ港は、ピョートル大帝(1世)が、18世紀初めにロシア艦隊の拠点にした場所で、当時は対スウェーデン戦争(大北方戦争)が戦われていた。しかし、冬になると、レーヴェリ港は凍り、夏は夏で、バルト海の強風により事故が起きる可能性があった。そこでピョートルは、艦隊を停泊させるのに最適な場所を探していた。
1710年、ゲスレル二等大尉は、フィンランド湾とリガ湾を調査して、ピョートルに次のように報告した。すなわち、艦隊が停泊できる唯一の場所はロゲルヴィク湾だが、それも港湾としてはあまり適当でない。なぜなら、「湾の幅のせいで、要塞を建設することは不可能であり、したがって艦隊は、海からの敵の攻撃に対して無防備となる」
ピョートル大帝は、非常な「締まり屋」の君主だったから、とくに誰も信用していなかった。港と要塞の建設に大量の資金を投入する前に、彼はまず自分でロゲルヴィクに赴いた。計6回も当地を訪れて、湾の深さを自ら測定することまでした――重量級の軍艦の航行に十分か、確かめたのだ。
1715年、ピョートルはついに、ロゲルヴィクに軍艦と商船のための港を建設することを命じた。海軍省の建物、造船所、そして都市を建設しなければならなかった。強風から港湾を守るために、皇帝は、マールイ・ローグ島の中央から本土まで、石造りの防波堤を建設するよう命じた。その全長は2.5キロメートル以上もあった。
採石場で石を切り出し、それで桟橋を建設する作業は、まさに重労働であり、しかも手作業で行わなければならなかった。1718年7月20日、ピョートルは自ら、湾に重い石を投げて、防波堤をつくるやり方を示した。こうしてロゲルヴィク港の建設が始まった。
「髭を剃り落とすことを望まぬ者の流刑に関する勅令」
最初の数年間は、ロゲルヴィクに建設資材が運び込まれ、都市が築かれていった。そのなかには、「木造の聖ゲオルギー教会、67の兵舎、司令部、風車、船が停泊する2つの埠頭」が含まれていた。しかし、軍港の建設は1721年まで始まらなかった。当時、ピョートルは、大北方戦争に最終的に勝利しようとしていたから。
1721年8月30日、ニスタット(現在のフィンランドのウーシカウプンキ)で、ピョートルの側近であるヤコフ・ブリュースとアンドレイ・オステルマンが、スウェーデンとの平和条約に署名した(ニスタット条約)。その際にスウェーデン側から及び腰で、ロゲルヴィク港の建設を取りやめてはどうかという提案があった。ロシアはすでに戦争に勝ったではないか、というわけだ…。
しかしピョートルは、スウェーデン側の意見を歯牙にもかけなかった。同日、8月30日に彼は、サンクトペテルブルクの軍事コレギアにおいて(コレギアは省に相当)、ロゲルヴィク港の建設は必須であると報告した。事を正式に運び文書化する主義である、この皇帝は、もう実施に移されていた自分の決定を、国の機関で念入りに裏付けた。
早くも1722年に、懲役のシステムがロゲルヴィクにつくられた。ピョートルは、2つの勅令により、主に古儀式派(分離派)教徒を当地に流刑にするよう命じた。
2つの勅令とは、「顎ひげを剃ることを望まぬ者、罰金を支払えぬ者のロゲルヴィクへの流刑に関する勅令」と「古儀式派を、シベリア流刑に替えて、ロゲルヴィクでの永久の労役に送ることに関する勅令」である。
1721~1724年には、9136人が港を建設していた。彼らの死亡率の統計はないが、「永久の労役」という勅令の言葉は、おそらく誰もロゲルヴィクから戻ってこなかったことを示唆しているだろう。
しかし、1725年にピョートルが死ぬと、港はもう建設されなくなる。彼は、その最後の勅令で、殺人犯と強盗を除いて、ロシア帝国のすべての囚人の釈放を命じた――彼らが皇帝の健康のために祈るように、と。
1726年には、要塞には450人いたが、そのうち150人はネルチンスクの鉱山に移され、残りは姿を消した。
1746年、すでにエリザヴェータ・ペトローヴナ(ピョートルの娘)の治世になっていたが、元老院は次のように報告している。
ロゲルヴィクには、「10人の職人以外は誰もいない…。建設作業は行われておらず、石板は痰まみれで、悪天候のせいで使用できない。囚人の重労働で造られた防波堤は、『ほぼすべて』水没している」
女帝エリザヴェータもまた、元老院の報告の直後に、すなわち同1746年に、ロゲルヴィクを自ら訪れることに決めた。女帝に、皇太子(将来のピョートル3世)と皇太子妃(後のエカテリーナ2世)が随行した。若いエカテリーナの覚書から、当時のこの町が実に厄介な場所だったことが分かる。
「私たちは皆、この旅で、足をのべつ幕なしに、やたらと動かさなければならなかった。ここの地面は石だらけで、小さな丸石の厚い層で覆われていた。そのため、一か所に少し立っているだけで、足がずるずるはまり込み、小石が足を覆い始める。私たちは、こんな場所に滞在して、数日間にわたり、宿営から宿営へ移動し、さらに帰還するために、自分の足で歩かなければならなかった。私はその後、丸々4ヶ月間も足が痛かった。防波堤で働いていた囚人たちは、木製の靴を履いていたが、80日以上は持ちこたえられなかった」
事実上の死刑と詩人プーシキンの曽祖父
まさにこういう場所に、女帝エリザヴェータは、死刑宣告された人々を流刑にしようと企てた。ちなみに、以下の点で、歴史家たちの見解は一致している。すなわち、帝位に就いた際に彼女は、臣民を死刑にしないと誓ったが、これは、前の君主、アンナ・ヨアーノヴナの過酷さを見ての反応だった――。
エリザヴェータの治世の最初の数年間、実際に、死刑判決の執行は停止された。1746年に彼女がロゲルヴィクを訪れたとき、ロシア帝国の監獄には、110人の殺人者、169人の再犯の泥棒、151人の終身懲役刑を受けたものが収監されていたが、元老院は、彼らについて報告しつつ、彼らをロゲルヴィクに送ることを提案した。
1752年に、港湾建設に貨幣の偽造者を送る勅令が出された。1756年にはさらに、「死刑を宣告された者、『政治的に死すべき者』は、終身懲役に送られる」との勅令も布告。
エリザヴェータの下での「政治的な死」は、当初は次のようなものだった。刑吏は、その「死刑囚」の頭を断頭用の丸太の上に乗せる。その後で、陛下による恩赦を正式に発表する。
しかし、それはやはり責め苦をともなった。受刑者の鼻孔を引き裂き、手を切り落とし、焼き印を押し、鞭または「シピツルーテン」(刑罰用の金属棒)で殴打することがあった。仮に受刑者がそうした刑罰のために死んでも、死刑とはみなされなかった。
1754年から、こうした「政治的処刑」は「緩和された」。恩赦が正式に告げられると、受刑者は「鼻孔を裂かれ、鞭打たれるか、体刑なしで終身懲役に送られた」。
しかも、受刑者は依然として、顔に「B」、「O」、「P」の3文字を焼き印された(ВОРは「泥棒」)。明らかに、この焼き印のために、囚人の脱走は無意味になった。たとえ一時的に脱獄できたとしても、遅かれ早かれ身分が割れて、捕らえられるだろうから。
エリザヴェータ時代の末期にロゲルヴィクにいたのは、こうした面々が数千人だった(年間約3千人の新しい囚人が送り込まれてきた)。
アンドレイ・ボロトフは書いている。ここには、あらゆる種類、階層の『人間』がいた。元高官、貴族、商人、職人、僧侶、あらゆる種類の『下々の者』(*農民や浮浪者などを意味している)。…さらに、ロシア人のほかに他の民族――フランス人、ドイツ人、タタール人、チェレミス人(*現在はマリ人と呼ばれる)等々――がいた」
労役の中での苦痛に満ちた死が、彼らすべてを待ち構えていた。そして、囚人の警護に派遣された兵士たちも、こんな場所での警護は懲役に等しいと考えていた。
1762年にエカテリーナ2世が即位し、彼女は次のように書いた。「ロゲルヴィクにおける労役に終止符を打つことが、国家に必要である」
同年、エカテリーナは、この都市を「バルチ―スキー・ポルト(バルト海の港)」と改名し、一般住民がそこに定住することを許可した。しかし、気候が厳しく監獄が近くにあるため、希望者はほとんどいなかった。この監獄には依然、囚人を収監していた。
こうした状況にもかかわらず、要塞は1755~1762年に完成している。プーシキンの曽祖父アブラーム・ペトローヴィチ・ガンニバルが建設を監督し、完成させた。ただし、この要塞が軍事目的で使用されることはなかった。
1764年、エカテリーナは、この度は女帝として、再びロゲルヴィクに来訪。この訪問の後で、最終決定が下された。「バルティースキー・ポルト港は、艦船の緊急避難のためにのみ用いられるべきである。すべての資金・資材は、レーヴェリ(*現在のタリン)に新たな石造の港湾を建設するために使われるべきである」
1768年、バルティースキー・ポルト(ロゲルヴィク)の建設工事が最終的に打ち切られた。この港湾はついに本来の目的で機能し始めることはなかったが、1718年以降、ほぼ50万ルーブルが費やされていた(当時、ロシア帝国の歳入の総額は、約1500万~1600万ルーブルにすぎなかった)。巨額の資金が無駄になったわけだ。
1789年以来、地元住民は要塞の建物の中で牛を飼うようになった。どうにか383メートル分を建設した防波堤は、徐々に水面下に沈み、浅瀬となった。囚人はシベリアに送られた。
しかし、監獄の建物は、終身刑の囚人のために使われ続けた。たとえば、農民・コサックの大反乱「プガチョフの乱」を率いたエメリヤン・プガチョフの仲間、サラヴァト・ユラエフは、父親とともに、この地で生涯を終えた。「プガチョフの乱」の他の参加者のなかにも、ここで死んだ者がいた。1800年の時点で、そうした叛徒がまだ12人、ここで服役していた。
こうしてバルティースキー・ポルト(ロゲルヴィク)は、徐々にその重要性を失っていった。1825年時点の人口は、わずか184人。この街に鉄道が敷かれた後に(1870年)、ようやくある程度の活気が戻ったにすぎない。