1941年12月7日(日本時間8日)日曜日、アメリカ国民は巨大な衝撃を受けた。日本海軍の航空機が、ハワイ諸島のパールハーバー海軍基地の米太平洋艦隊を奇襲。この攻撃により、21隻の艦船が沈没または損傷し、188機の航空機が破壊され、2,400人近い米水兵、パイロット、民間人が死亡した。
この一大奇襲作戦の立案、実行者は、山本五十六海軍大将。彼にとって、大国に一撃で甚大な被害を与える構想は、何もこの時に生まれたものではなかった。この事件の35年前に、ロシア帝国は、ロシア海軍史上最悪の敗北を喫していたが、山本もまたこの戦いに加わっていた。
ロシア帝国との戦い
日本はかつて世界に対し自らを閉ざしていたが、20世紀初頭には近代化をなしとげ、国力を建て直す。そして、極東におけるロシアの南下政策とその支配的地位に公然と異議を唱え、朝鮮半島と満州(現中国東北部)でのロシアの立場を弱めようと図る。
その結果起きたのが日露戦争(1904~1905年)だが、その経過は世界を驚かせた。ロシア帝国陸軍は、ただの一つも重要な勝利をものにすることができず、ロシア海軍もまた、失敗、敗北が相次いだ。
日露戦争まさにたけなわだった1904年11月、二十歳の山本五十六(当時の姓は高野)は、海軍兵学校を卒業し、少尉候補生として練習艦「韓崎丸」に乗船する。
しかし1905年1月には、少尉候補生のまま装甲巡洋艦「日進」に配属されて、5月27日のロシア海軍史の汚点となった日本海海戦に参加した。
日本の連合艦隊は、水雷艇3隻を失っただけで、リバウ軍港(現在はラトビア共和国のリエパーヤ)から回航されてきたバルチック艦隊を完全に撃滅した。21隻が撃沈されたか、損傷して自沈した。7隻は、マニラと上海に入港し、そこで抑留。当初の目標だったウラジオストクに行き着けたのは、巡洋艦「アルマーズ」と駆逐艦「ブラーヴイ」、「グロズヌイ」の計3隻のみ。約5千人が死亡し、約7千人が捕虜となった。
「日進」は、戦闘中に11発の敵弾を浴び、艦橋は破壊され、艦首に当たった大きな砲弾の破片が司令塔の窓に飛び込み、三須宗太郎中将を負傷させた。彼は、日本海海戦で負傷した、日本で唯一の将官だった。
山本自身も重傷を負った。「耳をつんざくような轟音とともに、まだ健在だった艦首の8インチ砲に砲弾が当たった」と、彼は振り返る。
「刺激臭のある煙が艦首を覆い、私は激しい爆風で吹き飛ばされそうになった。数歩よろめき歩いたとき、左手の2本の指がもげて、皮膚だけでぶら下がっていたのに気づいた」。若き将校は左太腿にも負傷した。
乗船していたイギリスのオブザーバーは後に、「日進」の砲身が爆発した理由は、実は、敵がうまく命中させたわけではなく、砲弾の起爆装置の感度が良すぎて砲身内で炸裂したせいだと主張した。
「報復」
山本は大変幸運だった。もし彼が、中指と人差し指のほか、もう一本の指を失っていたら、直ちに退役させられていただろう。
結局、山本の重傷は、海軍で輝かしい軍歴を築く妨げにならなかった。日露戦争は、彼にとって良い戦訓となり、その経歴に英雄的な頁を加えた。「戦いに赴き、死に直面した人間はそういうものだが、彼を恐れさせるのは難しい」。1930年代に日本のマスコミは山本について書いている。
1939年8月30日、山本五十六は、日本海軍の中核部隊である連合艦隊の司令長官に就任する。真珠湾攻撃の後、1942年6月のミッドウェー海戦まで、彼の指揮下にあった海軍は事実上無敵だった。
山本五十六はロシア帝国との戦いには参加したが、1945年8月にソビエト太平洋艦隊と雌雄を決する運命にはなかった。ソ連の対日参戦の2年前、米軍は、山本を狙った復讐作戦を成功させる。
日本側の暗号電文を傍受、解読して米軍は、ソロモン諸島を横断する山本の飛行の全ルートを察知。1943年4月18日、山本の乗機は、米軍の戦闘機部隊に待ち伏せされ、撃墜された。