現存しないロシアの要塞7選

Petr Pavlov/MAMM/MDF
 これらの場所はグーグル・マップでは「永久に閉業」と表示されるだろう。残念ながらロシア有数の堅固な防御施設も、現代まで生き残ることができなかった。しかし昔の版画や絵画、写真でその面影を偲ぶことはできる。

1. キタイ・ゴロド

 クレムリンの壁はモスクワで唯一の城壁ではなかった。16世紀中頃、国政を執り行ったイワン雷帝の母が首都の中心部を囲む防御壁を作ることを決めた。全長2.5キロメートルのキタイ・ゴロドの壁は記録的な時間で完成し、高さはクレムリンのものよりも低かったが、厚さはそれを上回り、大砲の設置に適していた。

内側から見たキタイ・ゴロドの壁

 壁は本領を発揮して幾度の攻撃に耐えたが、18世紀末、防御施設としての意義を失った。長年古きモスクワの象徴として残っていたが、スターリン時代に抜本的な都市再開発が行われることになった。街路を拡張して新しい小路を作る必要があったが、キタイ・ゴロドの壁が交通の妨げになっていた。入口が8ヶ所しかなかったからだ。壁は1930年代に撤去されたが、その一部は現存し、1990年代と2000年代には修復も行われた。

修復されたキタイ・ゴロドの壁

2. ベールイ・ゴロド

 モスクワのもう一つの防御壁がベールイ・ゴロドの壁だ。16世紀末にキタイ・ゴロドの周囲に作られた。ベールイ・ゴロドの壁は動乱時代に激しく損壊し、間もなく頑丈な城壁としての役割を失った。市民はこれを崩して石材を家屋の建設に転用した。

公共広場「ヤーマ」

 18世紀末、エカテリーナ2世が壁の撤去を命じ、跡地に道路が作られた。現在のブリヴァールノエ(「並木道」)環状道路だ。壁の土台の遺構が何ヶ所か現存している。例えば、ホフロフスカヤ広場には現在、流行りの公共広場「ヤーマ」(「穴」の意)がある。

3. セルプホフのクレムリン

昔のセルポホフ

 クレムリンと呼ばれる要塞はかつてロシアの多くの都市にあり、現在のモスクワ州だけでも約10城のクレムリンがあった。しかしその多くは現存しない。14世紀に建てられたセルプホフのクレムリンも、城壁と基礎の遺構が数点残るのみだ。

 要塞はモンゴル=タタール人がモスクワへ向かう道中の重要な防御施設として建てられた。18世紀半ば、セルプホフは軍事的な意義を完全に失い、壁は解体され始めた。1930年代、残存していた壁もモスクワ地下鉄の建設に転用された。現在クレムリンがあった小高い丘はソボールナヤ(「大聖堂」)山と呼ばれている。

4. イルクーツクのクレムリン

 これは現存すればロシア最東のクレムリンとなっていただろう。しかし現在シベリアに残るクレムリンは一つ、トボリスクのクレムリンだけだ。17世紀にロシアが東シベリアとイルクーツクを征服した際に木造の城塞が作られ、これが後にクレムリンとなった。

 歴史上一度も敵に攻められたことはなく、ロシア国境の拡大に伴って要塞の意義は完全に消えた。しかも大火に見舞われて城壁が損壊した。19世紀、クレムリンの跡地に庭園が造られた。要塞の面影を今にとどめるのは、街で最も古い石造建築の一つ、救世主教会だけだ。

5. ウラジーミルのデティネツ

昔のウラジーミルの様子

 モスクワの200キロメートル東にあるウラジーミルは12~14世紀にはルーシで最も有力な公国の首都であり、全ルーシの首都の座を狙った都市だった。12世紀にここに土塁と数層構造の城壁を持つ強力な要塞が築かれた。城壁は13世紀にモンゴル=タタール人の襲撃で大きな被害を受けた。城壁は後に再建されたが、モスクワが台頭するとウラジーミルはその意義を失い、次第に衰退していった。城壁も老朽化してついに消失した。

 現存する12世紀の石造建築は至聖生神女就寝大聖堂と黄金の門だ。伝承では、1767年、エカテリーナ2世が黄金の門を馬車で通る際に水たまりにはまり、激怒した女帝は門を迂回できるよう両側の古い土塁を撤去するよう命じたという。一方の土塁の一部が写真の左手に見える。

6. ヤム要塞

 現在のレニングラード州キンギセップ市に当たる。14世紀、ノヴゴロド共和国はリヴォニア騎士団の侵攻に備え、ルーガ川の畔に要塞を建てた。33日という記録的な期間に作られたヤム要塞は度重なる敵の包囲を耐え抜いた。

 後に再建されたが、スウェーデンが占領した際にもう一度再建された。1703年にピョートル1世が要塞を奪還した。スウェーデンの脅威はなくなり、要塞は解体された。

 現在城跡には公園と大きな発掘現場がある。各時代に建てられた城壁の遺構が残っている。

7. オストロフ要塞

 古代ルーシの西の国境、現在のプスコフ州には、リヴォニア騎士団の攻撃に備えて建てられた多数の要塞があった。その一つ、イズボルスク要塞は、度重なる騎士団の包囲に耐えたが、現在もその姿をとどめている。

 一方でオストロフ市の要塞は薄幸だった。16世紀末にポーランド王ステファン・バートリの軍が要塞に壊滅的な打撃を与えた。その後街は衰退し、防御施設を修復する必要がなくなった。17世紀、要塞はほぼ完全に消えた。第二次世界大戦中、オストロフはナチスに占領され、遺跡も徹底的に破壊された。現在残っているのは石造の奇蹟者聖ニコライ教会だけだ。

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