ソ連史上最大の地震

歴史
ボリス・エゴロフ
 1988年にアルメニア、ロリ地方のスピタクで発生した巨大地震は30秒ほどの間に街を壊滅状態にした。

1. アシガバート地震

 1948年10月6日深夜1時ごろ、ソ連邦トルクメン共和国の首都、アシガバートでマグニチュード7から10の大地震が発生した。町の住宅のほとんどが脆弱な1階建てのアドベ壁で作られていたが、それらの家々は崩壊し、数千人の人々が犠牲となった。

 軍医務総局のチホン・ボルディレフ中佐は、当時を回想し、次のように述べている。「電灯はすべて消え、真っ暗闇になり、数秒間、建物が崩れ落ちる轟音や梁が折れる音が聞こえました。耳をつんざくような、街を吹き抜けるすごい風のような音がしたかと思うと、まったくの沈黙が訪れました。空気には厚くて息苦しくなるような埃が充満しました。音もなく、助けを求める声もなく、動物の鳴き声もなく、まるで廃墟の下ですべての生命が失われたようでした。それからしばらくして、ようやく助けを呼ぶ声や負傷者のうめき声、子どもの泣き叫ぶ声、亡くなった家族に捧げる祈りの言葉が聞こえてきました」。

 アシガバートにあった200を超える工場では、火災が発生。人々は、瓦礫の下から家族を救おうとしたが、それはかなり困難なことであった。加えて、倒壊した地元の収容所から囚人たちが警察にあった銃を手に逃げ出し、町では略奪、強盗、殺人が横行した。

 人命救助と災害処理のため、アシガバートには軍部隊、警察、医師、医薬品、食糧、衣料品、建材、機材などが送られた。すべての病院が倒壊したため、通りに野外病院が設営された。暑い天候の中、感染症の防止のため、通常なら簡単に治療できるような負傷でも、手足を切断しなければならなかった。

 被害が大きかったこの地震は、アシガバートとその周辺地域で3万人から10万人の死者を出した。1949年、アシガバートではほぼゼロからの町の再建が始まった。

2. セヴェロクリリスク地震 

 1952年11月5日、太平洋に位置するカムチャツカ半島から130キロの地点でマグニチュード9の巨大地震が発生した。ソ連の沿岸地域の人々は揺れを感じたのは午前5時であった。

 居住区の倒壊は最少限に留められたものの、地面はひび割れ、建物の壁に亀裂が入った。しかし、この地震ではきわめて恐ろしい津波が起こり、それはセヴェロクリリスクにとって壊滅的なものとなった。

 最初の波は地震発生の20分後に、パラムシル島にあるセヴェロクリリスクを襲った。国家安全保障局のデリャビン中尉は、「地区の部署に行き着く前に、海の方からものすごい音が聞こえました」と語っている。「振り返ると、ものすごい高さのある波が海から島に向かってくるのが見えました。わたしは丘に上りながら、銃を発砲して『波が来ている』と叫ぶよう命じました。騒音と叫び声を聞き、人々はアパートから着の身着のままで(ほとんどの人たちは下着姿で裸足だった)丘に逃げました」。

 最初の波が来てから半時間後、次の波が到来した。波はより強力で、高さは20㍍にも達した。最初の波の後、すべて収まったと思い、人々はすでに丘から下り、家に戻っていたが、その家々にものすごい勢いで水の壁が襲いかかった。

 レフ・ドムブロフスキーさんは回想する。「あちこちに亡くなった人たちの体が横たわっていました。クレーンにぶら下がった状態の人もいました。コンクリート製の一軒は倒壊せずに残っていました。しかし、残っていたのは基礎だけで、屋根やドア、窓はすっかりなくなっていました」。

 まもなく第3の波が訪れ、残っていたすべてのものを飲み込んだ。海岸には、遺体とともに住宅や屋根、瓦礫が浮かんでいた。公式データによれば、セヴェロクリリスク地震では町の人口の半分以上にあたる2,336人が犠牲となった。

3. アルメニア地震 

 スピタクで発生したマグニチュード9の地震はわずか30秒で収まった。しかし、この短い時間で、ソ連、アルメニア共和国の半分が壊滅状態となった。1988年12月7日に発生した地震のエネルギーは、広島に投下された原子爆弾の10倍に相当するとされた。震源地はアルメニア北部のスピタクであった。ガイク・マルガリャンさんは、「最初、ものすごい轟音が聞こえ、数秒後に揺れが始まった。わたしは1㍍半ほど投げ出されました」と語っている。「わたしは起き上がり、建物の中から飛び出そうとしましたが、出ることができず、数秒後には次の余震が来て、そのときには立っていられないほどの揺れでした」。

 2回目の余震は最初の揺れよりも強く、多層階の住宅はカードで作った家のように崩れ落ち、逃げ出せずにいた人々は瓦礫に埋もれた。アスファルトは盛り上がり、波のようにうねった。近隣の山々には深さ6㍍、ながさ37㍍もの亀裂が入った。

 スピタクはほぼ全壊し、ほぼ何も残らなかった。この地震ではさらに20ほどの都市と300ほどの村が被害を受けた。犠牲者の数は2万5,000人から4万5,000人。14万人が負傷し、50万人以上が家屋を失った。

 アルメニアにはソ連からあらゆる支援が行われた。また世界の111カ国が被災地に人道支援物資を送った。軍部隊とボランティアによって、瓦礫の下からは1万6,000人の人命が救助され、4万人以上が被災地から運び出された。

 記者のナタリヤ・コズロワさんは、次のように回想している。「もっとも恐ろしかったのは、カーペットや毛布、シーツ、あるいはスタジアムや広場の花の上、またはただ単にひび割れた歩道の上に横たえられていた死人たちではなく、生き残った人たちでした。彼らはまるで幽霊のようにゆっくりと歩き、すでに叫び声をあげたり、声を出したりする力もないようでした。何か質問するとそれに答え、手を引くと歩いていましたが、手を離すと後ろを向いて、逆の方向に歩き出すのでした」。

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