ガガーリンはその世界歴訪の中で、20番目に日本を訪れた。しかし、ガガーリン曰く、日本は、宇宙から見た最初の外国だったという。
1960年代、ソ連と日本の関係は良好で、歴史研究家のイーゴリ・シュメイコ氏は、これを「高い満潮」と呼んでいる。当時、ナホトカ港はオデッサに次いで、2番目に積載量の多いソ連の港となり、1964年、日本はイギリス、フィンランドに続いて、資本主義陣営の中で3番目のソ連の貿易相手国となった。そんな日本が人類初の宇宙飛行士を温かく歓迎したことは驚くべきことではない。
ユーリー・ガガーリンは妻のワレンチナさんとともに、「日ソ協会」の招きにより1962年5月21日に日本を訪れた。羽田空港に降り立ったガガーリンを、人々はプラカードを持って、「万歳!ガガーリン!」の叫び声とともに出迎えた。東京でガガーリンは、帝国ホテルに滞在し、池田勇人首相と会見し、国会議事堂を訪れ、日本の研究者らとともに日本テレビに出演した。
ある店で、ガガーリンは8ミリビデオカメラを購入した。ガガーリンはこのカメラがとても気に入り、ビデオ撮影はガガーリンの趣味になった。「オスタンキノの新年の灯火」の番組など、多くのシーンで、カメラを携えたガガーリンの姿が残されている。
父親が技術委員会に勤務し、ソ連の同僚が日本の最新製品を購入する際に手助けしていたというイーゴリ・シュメイコ氏は、そのとき、ガガーリンがカメラを購入した店の主人が写真を撮影させてほしいと頼み、カメラをプレゼントさせてほしいと言ったと回想している。
「しかし、ガガーリンはもちろんカメラ代を支払いました」とシュメイコ氏は書いている。
ガガーリンは東京の他、名古屋、大阪、京都、北海道を訪れた。京都では、ロシア語で書かれたプラカードを持った人々が彼をで迎えた。プラカードには、「ガガーリン、万歳!」、「ハラショー!勇気ある鷹のガガーリン!」などの文字とともに、ガガーリンとレーニンの肖像画が描かれていた。
ガガーリンは、桂の公園を散歩し、芸者たちによる歓迎の昼食会にも参加した。ガガーリンは箸をうまく使うことはできなかったが、戸惑うことなどなく、かなり器用に懐石料理を堪能した。