ユーリー・ガガーリン=
アレクサンドル・モクレツォフ撮影/ロシア通信設計エンジニアを勤め上げ、現在は年金暮らしのアレクサンドル・ラキツキーさんは、1961年当時、レニングラード(現ペテルブルク)市の小学1年生だった。彼は次のように述懐している。
「1961年4月12日、レニングラード、ウラジーミル大通りに面した第216学校の1年生、3時間目は、算数だった。先生が授業を進める。先生の言うことを、机に向かって我々は、鼻息を立て、一生懸命、書きつける。ある児童がふざけて、変な顔をつくる。いつものことだ。みんなが笑う。ふざけたその子は、廊下に立たされる。それから5-6分後のことだ。その子がいきなり教室に飛び込み、宇宙飛行士が打ち上げられた!そう叫ぶ。彼は廊下へ戻される。それから4分くらいして、今度は教務主任が入ってきた。そして言うのだ。みなさん、ソビエト連邦で、最初の宇宙飛行士、ユーリー・ガガーリンが宇宙へ打ち上げられました。今日の授業は取りやめです、と。
我々1年生は表へ飛び出し、ネフスキー大通りへと走った。街には喜びと感涙があった。人たちは歌い、踊っていた。その夜、父は、1945年5月9日(ソ連で大祖国戦争終結が宣言された日)もこんなふうだったんだ、と教えてくれた」
アナトーリー・ソロドゥヒンさんは、バイコヌール宇宙基地で宇宙船のテストに従事していた。
「私や私の同僚たちにとって、1961年4月12日およびそれに関連する出来事は、人生で最も忘れがたいものだ」とソロドゥヒンさん。
「私たちはその時を今か今かと待っていた。神経の緊張は極限に達していた。地上設備のブザーが聞こえ、パネルのランプは消えたり、色とりどりに灯ったり。誰もが限界まで神経を緊張させていた。静寂の中で、打ち上げ班のリーダー、キリロフの指令が、一つ、また一つと発せられていた。
「キーをスタート位置へ!」
ロケットの中央コントロールパネル操作官が特殊キーの旋回により、ロケットの自動発射装置をオンにする。そしてついに、短く、威厳ある指令が出る。「発射!」
発射台のロケット支持部材が固定を外され、散開する。エンジンのうなりが高まり、地下司令部は揺れ、轟音で耳が詰まったようになる。
「パイェーハリ (出発)!」 ガガーリンの声がスピーカーからほとばしる。
地下司令部から走り出た我々の顔を4月の明るい日光が打った。宇宙船とその最初の乗組員を乗せたロケットが発射台を離れていく、そのうなりの高まりが耳を聾した。ロケットはゆっくりと上昇。そして、発射台をすっかり離れてしまうと、あとはどんどん飛行速度を増していくばかりであった。こうして記念すべき1961年4月12日、この惑星の宇宙時代が朝焼けを見たのである。
我々は地下司令部の出口のところに立って忘我の境地であった。首を仰向けて、飛び去るガガーリンの航跡を見つめていた。誰もが目に涙を、随喜の涙を浮かべていた」
1961年当時5歳だったルミア・ヌルスカノワさんとそのお祖母さんは、エンゲルス地区に着陸したユーリー・ガガーリンが最初に会った人たちだ。いなか暮らしのふたりであった。4月12日は庭でジャガイモを植えていた。
「私はずっと空を見ていた。2つの赤い点を見つけたが、祖母に叱られ、ジャガイモを植える手を休めないように言われた。私は仕事に没頭し、なぞの光のことは忘れた。しばらくして、ふと見ると、(今度は空でなく)地上におびただしい数のロープがあった。その中からオレンジ色の怪物が立ち上がり、まっすぐこちらに歩いてくる。
祖母に言う。「見て!おばあちゃんが空を見ようとしないので、あいつのほうがこっちへ来た」。祖母もそれを見ると、立ち上がり、腕で私を捕まえて、祈りを唱えだした。もちろん私もおそろしく、祖母にしがみついていた。
私たちは身をひるがえし、菜園のほう、家のほうへ走った。そのときそいつが叫んだ。「お待ちなさい、おっかさん、私はあやしいものじゃありません」。祖母は立ち止まった。私たちのほうへ近づいてくるそいつ。祖母は気密ヘルメットを脱ぐのを手伝ってやった。顔が現れた。その顔は、微笑んでいた。祖母は尋ねた。「どこから来た?誰なんだ?」 この当時、家にはラジオがなく、私たちは何一つ事情を知らなかったのだ。彼は答える。船から、と。祖母は驚いて言う。船ってどういうことだ、水なんかどこにもないのに、と。「私は空から来たんだよ」と宇宙飛行士は答えた。
このとき私はジャガイモの警備に残っていた。バケツに仔牛が駆け寄って、食べようとしたからだ。このとき私には、ガガーリンよりジャガイモのほうが大事だった。祖母は船とやらを見に行った」
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