西側のスパイたちがソ連で犯した大失敗

 正体を暴かれた外国人スパイは国外追放されるか、最悪の場合でも投獄されるだけだったが、CIAやMI-6に雇われたソ連国民は銃殺刑を免れなかった。

1. パワーズの失態

フランシス・ゲーリー・パワーズがソ連の裁判にて、1960年8月19日

 1960年5月1日午前8時53分、「ウラルの首都」ことスヴェルドロフスク(現エカテリンブルク)の上空で、ソ連防空軍がソ連領空を侵犯した米国の高高度偵察機U-2を撃墜した。パラシュートで脱出したフランシス・ゲーリー・パワーズは地上で現地住民に拘束された。

 ソ連軍は米軍機がパキスタン・ソ連国境を通過した時点でこれを撃墜することはできなかった。U-2は防空軍の守備範囲外の高度24キロメートルを飛んでいたからだ。スヴェルドロフスク上空で高度14キロメートルまで降下したところで、8発放たれたミサイルの一発が米軍機に命中した。この際、別のミサイルが迎撃任務に当たっていたMiG-19に誤って命中し、そのパイロットが死亡する事故が起こった。

モスクワに展示された撃墜された偵察機

 取り調べで分かったのは、パワーズがCIAの指示でパキスタン国境からノルウェー国境までソ連全土を通過して仮想敵の工業施設や軍事施設を写真撮影しようとしていたということだった。

 事件はたちまち国際問題に発展した。米国のドワイト・アイゼンハワー大統領は、気象観測を行っていたパイロットが単に航路を反れてしまっただけだと釈明した。これに対し、ソ連はパワーズの持ち物や飛行機の残骸から回収された特殊な諜報道具の一式を公開した。

フランシス・ゲーリー・パワーズが拘束された時の特殊な諜報道具

 1960年8月19日、フランシス・ゲーリー・パワーズはスパイ罪で10年間の自由剥奪の判決を受けた。だが、彼が刑務所に長く拘留されることはなかった。1962年2月10日、米国で正体を暴かれたソ連の諜報員ルドルフ・アベルと交換する形で、彼は米国に帰された。

2. 「英雄」の失敗

オレグ・ペニコフスキー

 この人物は、冷戦中にソ連で最も活躍した西側のスパイの一人だと言われている。ソビエト軍参謀本部情報総局の大佐を数年間務めたオレグ・ペニコフスキーは、米英の情報機関にとって実り多い働きをした。

 西側との接触を図ったのはペニコフスキーの方からだった。1960年6月、彼はモスクワで数人の米国人観光客に声をかけ、米国大使館に彼の手紙を渡すよう依頼した。手紙には、この年の5月1日にスヴェルドロフスク上空でフランシス・ゲーリー・パワーズのU-2偵察機が撃ち落とされた際の顛末が綴られていた。1961年4月、大佐は出張でロンドンに赴いた際にMI-6に採用された。

CIAとMI-6がペニコフスキーに渡した諜報道具

 「英雄」というコードネームを与えられたオレグ・ペニコフスキーは、自身の新たな西側の同僚に、ソビエト軍の現状、ドイツ駐留ソ連軍、中ソ関係、ソビエト政権上層部の雰囲気に関する極秘情報を流した。「ミノックス」という小型カメラによって、彼は111本のフィルムに5500もの文書(7650ページ相当)を撮影した。彼の暗躍により、西側では600人のソ連人スパイが無力化された。

 「英雄」は米国籍と米英諜報機関における高い地位が約束されていた。だが、それが実現することはなかった。ペニコフスキーは1961年末にKGBに目を付けられた。スパイ行為を疑われていた英国の大使館員アナ・チザムと一緒にいる姿を目撃されたのだ。

 KGBは一年間オレグ・ペニコフスキーを監視し、彼のやり取りを明らかにしていった。1962年10月、彼は逮捕された。間もなく、彼の諜報連絡員グレヴィル・ウィンも拘束された。

オレグ・ペニコフスキーとグレヴィル・ウィンの裁判にて

 「国家反逆者ペニコフスキーとウィンの件で分かったことは、警戒心のなさ、近視眼的な政策、ペニコフスキーが会って酒を飲んでいた数人の軍人の無責任な無駄口が、彼の犯罪行為を可能にしていたということだ」とKGB捜査部の上官ニコライ・チスチャコフは綴っている。「だが、この件で別のことも分かった。ペニコフスキーを囲んでいたのは飲み仲間と迂闊者ばかりではなく、鋭い洞察力を持つ者もいたのだ。ペニコフスキーが自分と直接関係のない事をあまりにも熱心に知りたがる、彼の行動が怪しい、という彼らの報告が基礎となり、捜査員らは危険な犯罪を解明できたのだ」。

 グレヴィル・ウィンは8年間の自由剥奪の判決を言い渡された(ただし、英国で捕まった諜報員コノン・モロドゥイと引き換えに1964年4月に釈放された)。ペニコフスキーの事件に関与した米英の外交官らは国外に追放された。「英雄」自身には厳しい運命が待っていた。称号とすべての賞を剥奪され、国家反逆罪で1963年5月16日に銃殺された。

3. ソ連の億万長者の施策

アドリフ・トルカチョフ

 極秘の無線科学研究所の主導的な設計者だったこの人物は、ソ連で6年間CIAの貴重なスパイとして活動した。「心の中では反体制派」と自称していたアドリフ・トルカチョフは、西側にソ連の防衛能力に関する貴重な情報を大量に西側に流していた。

 トルカチョフは長らく西側の情報機関との接点を探っていた。そして1979年1月1日、ついにソ連にいたCIAの駐在官と接触できた。CIA職員はまたとない人材が転がり込んできたと理解した。

 アドリフ・トルカチョフはゼロの6つ付く額の報酬を要求した。彼にとって金は敬意の印であり、彼の仕事を評価している証拠だと言うのだった。CIAはこの条件を呑んだわけではなかったが、彼の得た数十万ドルの年収は、1979年当時は米国の大統領の給料に匹敵するもので、以後数年はそれをも上回る額の報酬を受け取っていた。6年間でソ連人技師の国外の口座には約200万ドルが振り込まれた。加えて彼はソ連で80万ルーブル受け取っていた。ちなみに研究所の月給は約350ルーブルで、これはソ連の基準ではかなり良い方だった。

 トルカチョフは米国にミサイルや地対空ミサイル複合、レーダー、MiG戦闘機やSu戦闘機のアビオニクスの開発に関する極秘情報を流した。この情報により、米国は自国の軍事開発で数十億ドルを節約することができ、また、1991年のイラクでの「砂漠の嵐」作戦ではサダム・フセインのミグ戦闘機に容易く対応できた。

アドリフ・トルカチョフの拘束

 CIAで「ミリアルド・ドル・スパイ」と呼ばれたトルカチョフは、用心深かったために長年活動を続けることができた。莫大な財力を誇りながら、自身は控えめな自動車と小さめの別荘しか持っていなかった。

 トルカチョフは1985年にソ連に亡命したCIA職員エドワード・リー・ハワードに正体を暴露された。1986年9月24日、ソ連のミリオネア・エンジニアは国家反逆罪で銃殺された。

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