この大戦で息子や父親を失わなかった家庭はソ連では珍しかった。家族の男全員が戦死するという悲劇もよくあった。残された妻や母の運命はつらいものだった。
米軍のサリヴァン五兄弟の話はよく知られている。彼らはガダルカナル島攻防戦で軽巡洋艦「ジュノー」とともに海に沈んだ(映画『プライベート・ライアン』は部分的にこの実話を基にしている)。同様の事例は残酷かつ容赦ない東部戦線ではもっとたくさん起こっていた。
人類史上最も血生臭い紛争は、数百万の人々の心に癒えない傷を残した。
本当の奇跡
とはいえ、幸運な例外もあった。例えば、ウクライナのブロヴァヒ村のエヴドーキア・ダニーロヴナ・ルィセンコの息子は、十人とも前線に向かい、全員無事に生きて帰ってきた。
最初に戻ってきたのはニコライだった。彼は仲間7人が死亡した爆発を生き延びたのだった。1944年、退院した彼は母のもとに送られた。
イワンはウクライナ全土で戦い、トレブリンカ強制収容所に入れられたが、脱走に成功した。彼はその後も戦い続け、ルーマニアで終戦を迎えた。
そのルーマニアで兄弟のうち2人が偶然の再開を果たした。1944年8月、ヤシ近郊の前線でミハイルはフェオドーシーを見つけた。「私は彼の塹壕に駆け寄り、彼を抱きしめた」とミハイルは回想している。「私は偵察に行くところで、彼は偵察から帰るところだった。私は行かねばならず、長話はできなかった。二人とも泣いていた」。ハンガリーでの戦闘の後、兄弟は身体に障害を負って帰還した。ミハイルは胸に重傷を負い、フェオドーシーは片足を失っていた。
アンドレイとパーヴェルはドイツで強制労働をさせられたていたが、解放され、進撃する赤軍部隊に合流した。上級中尉のワシリーは3度負傷し、勇敢さを讃えられて赤星勲章を受章した。1946年には、電話線架設兵だったピョートルが帰還した。
ルィセンコ兄弟はベルリンから極東までのすべての前線で戦った。通信兵のアレクサンドルは第三帝国の首都に至った。戦車兵のステパンは東プロイセンで負傷した後、日本軍と戦うため満州へ向かったが、彼が到着するまでに戦闘は終了していた。彼は1947年、兄弟の中で最後に帰郷した。
英雄たる母
1933年に未亡人となっていたエヴドーキア・ダニーロヴナは、一人悲痛な思いで前線からの報せを待ちつつ、5人の娘を育てていた。幸運な母は、ドイツ軍の占領を耐え忍び、息子全員と生きて再会することができた。
エヴドーキア・ルィセンコの驚くべき話はたちまち村の外でも知られるようになった。1946年、彼女はキエフで「英雄たる母」の勲章を受章した。
エヴドーキア・ルィセンコは数え73歳で1967年に死去した。1984年に彼女を記念して故郷のブロヴァヒ村に銅像が建てられることになった。除幕式にはワシリー(式典以前に亡くなった)を除く息子全員が出席した。