ミスター・ニエット:ソ連の顔 グロムイコ外相についての5つの事実

歴史
ニコライ・シェフチェンコ
 アンドレイ・グロムイコはかつて、1日の戦争よりも10年の交渉のほうがマシであると言い、その言葉を守った。このため、彼はソ連と西側の双方で広くリスペクトされていた。

1. グロムイコはたまたま外交官になった

 伝えられるところでは、ソ連の独裁者ヨシフ・スターリン自身が、外務省職員の候補として、アンドレイ・グロムイコを承認した。その文字通り「轟きわたる」姓が、独裁者の注意を引いたからだという(グロムイコは、「グロム(雷)」が語源だ)。

 「グロムイコか。いい名字じゃないか!」。スターリンはそう言ったらしい

 この話の真偽のほどは定かでないが、ソ連の独裁者がアンドレイ・グロムイコを外交の重鎮の位置に導くのに大きな役割を果たしたのは確かだ。ただ、その経緯は、間接的で不気味だったが。

 1930年代、スターリンの粛清により、外務人民委員部(外務省)は、大打撃を受けていた。練達の外交官の多くが弾圧され、空いたオフィスには、新しい幹部が必要となった。

 その新たな候補者は、二つの基準をクリアしていなければならなかった。つまり、英語をある程度知っていて、「プロレタリア」または「農民」の出であることだ。

 偶然にも、若きアンドレイ・グロムイコは、農家に生まれ、父親から英語を教わっていた。父は、カナダに短期滞在して、木材の伐採に従事したことがあった。

 つまり、外交官候補グロムイコは、ソ連では「貴種」であり、英語も知っていた。おまけに、身長は185cmと長身で、「轟きわたる」名字までもっていた。これらすべての要因により、彼は、外務人民委員部の職員候補としては理想的だった。

 「私はたまたま外交官になった。労働者あるいは農民出身の別の人間が選ばれた可能性もあった」。グロムイコは数年後にこう言った

 こういうわけだから、かりにスターリン自身が候補者リストからグロムイコを選ばなかったとしても、独裁者は別の形で、つまり粛清で大量の空きをつくることで、グロムイコの台頭に大いに貢献したわけだ。

 

2. グロムイコは故意に相手の神経をすり減らしていた

 グロムイコはしばしば、犠牲者をくわえて離さないブルドッグや、ゆっくりとだが確実に一定の方向に進む大型機関車になぞらえられた。そして、これは単なる比喩ではなかった。

 グロムイコの数多くの才能の一つは、一見無限に見える忍耐力だった。このソ連外相との交渉に関わった外交官のなかには、グロムイコとのマラソン交渉に耐えるのは至難だと感じた者がいた。彼が、延々何時間も、細かいことを平然と議論していたからだ。

 にもかかわらず、彼のパーソナリティは、他の外交官の多くを魅了した。アメリカの外交官、ヘンリー・キッシンジャーは、グロムイコの外交術を高く評価していたと述べた

 「アンドレイ・グロムイコがつくり出した印象は、非常にタフで、最高のプロで、非常に厳格な人間だというものだった。それはその通りで、彼は実際そういう人だった。しかし、私はそれに付け加えたいと思う。彼は、非常に知的で、常に準備ができていて、決して落ち着きを失わなかった。そして、素晴らしいユーモアのセンスをもっていた。それはすぐには分からなかったが、彼の人となりを知ると、我々が会談を行ううえでとても役に立った」

 

3. グロムイコの個人的な悲劇が、彼の妥協なきスタンスに影響した

 グロムイコはしばしば、交渉相手から「ミスター・ノー」と呼ばれたものだ。もっとも、グロムイコ自身は、「彼らが私の『ニエット』を聞いたよりもずっと頻繁に、彼らの『ノー』を聞かされた」と答えるのが常だった。

 とはいえ、グロムイコは、自分が関わった数多くの外交問題で、妥協なき立場をとることがしばしばあった。これは、当時の外交官たちに知れわたっていたことだ。

 もしかすると、個人的な悲劇がグロムイコの「鉄の意志」を育むのに、一役買ったのかもしれない。第二次世界大戦中、グロムイコが外交畑の仕事を始めたとき、彼の三人の兄弟は、前線の塹壕で戦っていた。そのうちの二人は戦死し、もう一人は、負傷のために戦後に死んだ。

 外交官グロムイコは、勝利への自分の家族の貢献をいつでも肝に銘じていた。それは、ソ連の敵だったドイツに関係する交渉でもそうだったし、戦後の国際秩序に関わる交渉でも同様だった。

 グロムイコはかつて告白したことがある。亡き兄弟の記憶のおかげで、自分が交渉しているときに、一種独特の感覚がそこに加わっている、と。つまり、その交渉が決定的な重要なものであり、そこに自分みずからが貢献しているような感覚があったという。

 「我々は、あの戦争の結果を変更させるようなことはしない。我々が彼らに屈服したら、拷問され殺されたすべての人に呪われるだろう。私は、ドイツ人と交渉するとき、しばしば私の兄弟が背後から囁くのを聞く。『アンドレイ、彼らに屈服するな。屈服するな。それはお前だけのものじゃない。我々みんなのものなんだ!』」

 グロムイコは、自分の断固たる交渉の仕方の背景をこう説明したことがある。

 

4. グロムイコは、戦後の新秩序構築を助けた

 アンドレイ・グロムイコは、戦後世界を形作り、それをより安全なものにすることに尽力した。

 彼は、実に長く、また幅広い外交キャリアを築いた。ソ連の外相として28年間、さらに他の外交ポストも長年務めた。グロムイコは、20世紀の重大な政治的事件の事実上すべてにおいて、主要な役割を演じている。

 彼は1943年に、スターリン、ルーズベルト、チャーチルが会ったテヘラン会談の準備を助けた。また1945年には、「三巨頭」が戦後の世界秩序を形作ったポツダム会談の準備にも、積極的に加わっている。

 グロムイコは、ソ連を代表して国際連合憲章に署名した。誕生した国連は、その後のグローバル化する世界の象徴となった。

 部分的核実験禁止条約(地下を除く大気圏内、宇宙空間、水中での核爆発をともなう実験を禁止した)もまた、グロムイコの尽力もあって、1963年に調印された。この条約は、世界を少し安全にするのに役立った。

 しかし、グロムイコは、自身の世界秩序、平和への貢献のなかで、ある一つをとくに重要に考えていた。

 「私は、自分の最大の成功は、ヨーロッパの戦後国境が条約により強化されたことだと考えている。欧州諸国がこれらの条約、協定を拒否し、違反し始めれば、おそらくまた欧州に戦争が起きるだろう」

 

5. ゴルバチョフの登場を助けた

 ソ連の指導者が相次いで亡くなっていた1985年、グロムイコは、ソ連の事実上の指導者ポストである共産党中央委員会書記長の候補だったので、ソ連の指導者となる可能性があった。

 グロムイコには、外交を離れてソ連の最高権力者の座を争う野心が明らかにあったのに、肝心な時にその企図を引っ込めた。1985年、ソ連の指導者、コンスタンチン・チェルネンコが死去したとき、グロムイコは代わりに、ミハイル・ゴルバチョフに道を譲っている。

 グロムイコが立候補を取りやめることにした理由はよく分からない。とくに、ゴルバチョフに対する彼のやや懐疑的な見方と、後の彼の政策(ペレストロイカ)を考えると、なおさら不可解だ。

 それでもグロムイコは、ソ連最高のポストに就く可能性のあった他の候補者をさしおいて、ゴルバチョフを推した政治局員の一人だった。

 時が経つにつれ、グロムイコは自分の選択に失望したようで、ゴルバチョフの国家運営のやり方に疑問を呈した。しかし、グロムイコがそのために何かをする余地はほとんどなかった。なぜなら、最高会議幹部会議長という、名目上の国家元首ではあるが、基本的に名誉職にすぎないポストに祭り上げられたからだ。これはソ連版の大統領職としても知られていた(アメリカの制度とは違って、ソ連版大統領には、書記長のような権限はなかった)。 

 「ゴルバチョフがグロムイコに大いに感謝して、然るべく遇したとは言えないだろう。グロムイコは、書記長就任を助けたというのに、外相職を解かれ、ソ連版大統領になった。ソ連の大統領はそんなに忙しくなかったから、私は、民間人としてモスクワに行ったとき、頻繁にクレムリンの彼の執務室を訪ねたものだ。そして、かつて三十年戦争であちこち転戦した老兵が戦後に出会ったみたいに、昔のことをあれこれ語り合った」。グロムイコの交渉相手でカウンターパートであり、かつまた友人だった、かの有名な米国の外交官、ヘンリー・キッシンジャーはこう述べている

  グロムイコは、1988年10月1日に政界から引退した。今もなおグロムイコは、世界で最もリスペクトされている外交官の一人であり、ソ連と現代ロシアの歴史の中で「最長の」外相だ。 

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