ピョートル大帝の「遊戯連隊」:軍事大国への飛躍の原点

歴史
ゲオルギー・マナエフ
 この種の軍事訓練を受けた皇帝はかつていなかっただろう。少年時代からピョートル大帝(1世)は、軍事訓練と実戦さながらの演習で将兵の指揮を学んだ。後にこの「遊戯連隊」は、ロシア軍の最精鋭部隊である近衛連隊に発展する。

 子供の頃、ピョートルには、あらゆる種類の素晴らしいおもちゃがあった。時計仕掛けの鳥、オルゴール、銀メッキを施した馬、本物の小型馬車。これは、クリスタル製の窓ガラスがはまっていて、四頭の仔馬がひき、四人の小人がお供した。しかし、彼のいちばんお気に入りの玩具は、おもちゃの銃、弓矢、斧、剣であり、すべて子供に適したサイズにつくられていた。

 

ピョートルのおもちゃの連隊

 ピョートルの父、アレクセイ・ミハイロヴィチ帝(1629~1676)は、息子の軍隊への情熱に気づき、ヨーロッパでは類例のない極めて優れたアイデアを思いついた。彼は、息子が指揮する連隊をつくったのだった。

 4歳のとき、ピョートルは、自分の連隊の連隊長になった。少年は、連隊に必要なことがらすべてについて報告を受け、命令を出した。最初のうちは、これらの仕事をこなすのを父帝が助けていたが、1676年に父は亡くなった(三男のフョードルが後を継いだ)。それでピョートルは、自分で指揮を続け、ポール・メネシウス(ロシア名はパーヴェル・メネジイ)に補佐してもらった。これは、父帝がピョートルの軍事訓練を委ねたスコットランド人の将軍だ。

 ピョートルの連隊の「兵士」は、彼と同年配の少年たちで、少し年上だった。詳細は不明だが、たぶん富裕な貴族の子弟だったろう。彼らは、緑色の制服を着せられ、最初は約50人の少年から成っていたが、連隊の人数は増えていった。多くの子供が若い皇太子といっしょに軍事演習をやりたがったからだ。

 後にこの小さな軍隊は、「遊戯(Poteshnye)連隊」として知られるようになる。「Poteshnye」は「遊戯、娯楽の」を意味する。なぜだろうか?ピョートルの軍事訓練のどこが「遊戯」だったのか?

 

「遊戯連隊」あるいはおもちゃの軍隊

 ピョートル以前の皇子たちは、道化、漫才、手品、小人などで楽しんでいた。幼い皇子のために手間暇かけてつくられた玩具、仔馬がひくおもちゃの馬車、等々。しかしこれらはすべて、世話係が必要で、その世話、関連の雑用は、「Poteshnye syola」(遊戯村)と呼ばれる特別な村の農民に委ねられた。彼らが幼い皇子の娯楽を提供したわけだ。

 ピョートルの「遊戯連隊」も、こうした村の農民が世話していた。プレオブラジェンスコエ村(現在はモスクワ市内)もその一つだった。これが、彼の小さな軍隊がロシア史の中で「娯楽連隊」として知られるようになった理由だ。しかし、時が経つにつれて、遊戯連隊はかなり本格的な演習を始めるようになる。

 1683年、11歳になったピョートルは、野外演習を行っていた。同年、若き皇太子は、初めて本物の大砲の砲撃を見る。

 「榴弾と火器の職人、および銃砲プリカーズ(省庁に相当)所属の、彼らの弟子たちは、シメオン・ゾンメルの監督の下で、『遊戯大砲』を発射した」。年代記にはこう記されている。

 この「遊戯大砲」は、ピョートルの目の前で発射された。

 ピョートルはやがて、自分の連隊に成人男性を募集し始める。1684年、プレオブラジェンスコエ村にあるピョートルの「遊戯宮殿」の近くに、「プレスブルグ」という名の木造要塞が、ピョートルの新しい軍事顧問フランツ・ティンメルマンの監督下に築かれた。

 遊戯連隊は、「敵軍」と「防衛軍」の二つに分けられ、この小要塞の攻略の仕方を学んだ。やがて、より多くの兵士が、付近のイズマイロヴォ村とセミョーノフスコエ村に配置されるようになる。1686年、ピョートルは、連隊に通常の大砲を配備し、1687年までには、イズマイロヴォ近くのプロシアンスキー池で海軍演習を始めていた。

 

*もっと読む:「ピョートル大帝とそのボート:ロシア海軍の原点」(英語)

 

「遊戯連隊」が初の近衛連隊に

 1691年にピョートルは、遊戯連隊を、二つの通常の連隊に変えた。これが、彼の将来の軍隊の中核をなす、プレオブラジェンスコエ連隊とセミョーノフスコエ連隊だ。後にこの二つの連隊は、ロシア帝国最初の近衛連隊となった。

 1691年、19歳のピョートルは、実際の軍事行動の特徴を研究すべく、本格的な演習を連隊に命じた。野外演習は数ヶ月続き、ピョートル自身が演習におけるあらゆる困難を、将兵と共にした。こうした訓練方法は、17世紀後半ではまったく革新的であり、欧州諸国の軍隊では行われなかった。

 1693年と1694年、ピョートルとその連隊は、ロシア北部のアルハンゲリスク周辺に向かって、本格的な行軍の訓練を行い、1694年には、モスクワのコジュホヴォ村近くで大規模演習を実施した。本物の大砲とライフルが使われ、死傷者も出た。

 ピョートルの友人であり同志でもあったボリス・クラーキン公爵(1676~1727)は、こう書いている。

 「欧州の君主は、これ以上本格的に演習を組織することできなかったろう…。それは6週間続いた」

 クラーキンによると、3万人以上が演習に参加し、24人の死者と50人以上の負傷者を出した。このようにしてピョートルは、実戦に向けて、かつての遊戯連隊を準備した。その実戦は間もなく、バルト海の覇者スウェーデンとの間の「大北方戦争」で、現実のものとなる。

 このように、ピョートルの幼年時代の「軍隊ごっこ」から、新たな戦略、戦術が生まれ、それでロシア軍は名を馳せることになった。

 ピョートルが、儀式的な軍事訓練を認めなかったのは当然だ。後に、フランス訪問中に同国の演習を見たとき、ピョートルは、それを「兵士ではなく着飾った人形」だと一笑に付した。

 自分の将兵に対しては、ピョートルは、これと反対の、戦場での真に効果的な行動を求めた。彼は、連隊が戦場で通常の陣形を保つことにはあまり重きを置かず、勇敢で断固たる決定的な攻撃と、すべての将兵の自発性を要求した。

 ピョートルの歩兵と騎兵のこうした資質のおかげで、ロシアは大北方戦争に勝利し、1720年代には、欧州屈指の軍事大国に成長する。