8月クーデター未遂から29年

ホワイトハウス前で市民とともに反クーデターの勝利を祝うロシア共和国の大統領ボリス・エリツィン

ホワイトハウス前で市民とともに反クーデターの勝利を祝うロシア共和国の大統領ボリス・エリツィン

アンドレイ・バブシキン撮影/TASS
 25年前の1991年8月19~21日、従来のソ連を維持する最後の試みが見られたものの、あえなく失敗に終わった。

 「同胞たちよ! ソ連の国民よ! 祖国とわれわれの民族の運命にとって辛く危機的な今、私たちは、みなさんに告げる! 私たちの偉大な祖国は、致命的な危険に晒された! 国の躍動的な発展と社会生活における民主化を保障する手段として考えつかれミハイル・ゴルバチョフ氏の発意に基づいて開始された改革政策は、諸々の原因により行き詰った。

 ソ連の潰滅と国家の崩壊と犠牲をかえりみぬ権力の奪取を目指す路線を採る過激主義的な勢力が、与えられた自由を利用し、生まれたばかりの民主主義の芽を踏みにじり、台頭した」。 

 ソ連の国民は、8月19日、ソ連の国家非常事態委員会(GKChP)が発するこうした気懸りな声明を耳にした。それまで、国民は、GKChPの存在すら知りもしなかった。

抵抗の3日間 

 前日に創設された同委員会は、国家保安委員会(KGB)議長や首相や副大統領といったソ連の最高指導部を代表する人物で構成された。ゲンナジー・ヤナーエフ副大統領は、ゴルバチョフ大統領が健康上の理由で執務不能となり自らが大統領の職務を引き継ぐという内容の布令を発した。ソ連を脆弱な国家連合(Confederation)に変えた連邦憲法の本質的に新たな案を準備しつつあったゴルバチョフ氏は、休暇先のクリミアでクーデター派によって軟禁された。

 GKChPは、検閲を導入し、テレビ放送を制限し、番組の編成を変更されたテレビでは、バレエ「白鳥の湖」ばかり流されていた。ちみなに、これは、あの出来事を連想させるものとして今も多くの人々の記憶に残っている。そして、モスクワへは、軍隊も導入された。それでも、クーデターの試みは、実を結ばなかった。

 GKChPが存在したのは、わずか3日間。当時人気のあったロシアの指導者ボリス・エリツィン氏の支持者らがGKChPのメンバーらをそう呼んだ「プッチスト」らは、GKChPへの抵抗の牙城となったロシア政府庁舎であるベールイ・ドーム(ホワイト・ハウス)に手を焼き、同委員会のメンバーらは、その建物を襲撃しようとしなかった。一方、エリツィン氏の側近は、ゴルバチョフ氏をクリミアからモスクワへ連れ戻すことができ、GKChPのメンバーらは、拘束された。 

 クーデターの失敗によって最も大きな政治的利益を得たのは、ふた月前にロシア共和国の大統領に選ばれたボリス・エリツィン氏であり、同氏の主な政敵であるゴルバチョフ氏(ならびに、ソ連邦の全指導部および政治プロジェクトとしての連邦自体)の権威は、再起不能なまでに失墜した。エリツィン氏の支持者らは、あのとき、クーデターの試みを過去そしてペレストロイカ以前のソ連へ逆戻りする志向とみなし、ベールイ・ドームを大勢で死守した。

 しかし、それは、まさにそうだったのか?GKChPがそれでもやはり権力を握っていたとしたら、どうだったのか、それは、そもそも可能だったのか? 

「ソ連の断末魔」の先延ばし 

 政治学者のアレクセイ・ズーヂン氏は、クーデターの頃にはソ連崩壊のプロセスはすでに不可逆性を帯びていたので、それは不可能であり、「クーデターの成功は、断末魔を先延ばしするだけだったろう」、と確信している。このアナリストの考えでは、ソ連の運命は、GKChPのメンバーが何をしようが決まっていた、つまり、ソ連の存続を願う同委員会のメンバーらがどんな行動を取ろうとも、失敗は免れなかった。 

 同氏は、ソ連の問題の本質は、ゴルバチョフ以前のソ連の指導者らには、共産主義的イデオロギーの枠内で定められた国の発展のための戦略的目標が、すでに失われていた、という点にあった、とし、「これらの人[連邦の指導者たち]は、掲げられた目標を信じておらず、それが、[ソ連崩壊の]最大の原因となった。国には、その存在の意味や目的が、失われていた」と述べる。

 そして、GKChPにも、そうした青写真が、存在しなかった。  元大統領府職員で通信社レグヌムの社長であるモデスト・コレロフ氏も、GKChPは何もうまくいかなかったろうと考えている。同氏によれば、「中央集権国家は、ペレストロイカの最後の数年つまり1989年~1991年に崩壊した」。バルト海沿岸や南カフカスの一連の連邦構成共和国は、すでにソ連に留まりたくない意向を表明していた。コレロフ氏は、クーデター派に変革のプログラムがなかった点も指摘している。

GKChPは勝利できた

 しかし、GKChPのメンバーがもっと周到に政権奪取の準備をしていれば、同委員会には勝利のチャンスがあった、という見方もある。モスクワ国立総合大学の歴史学者で政治学者のドミトリー・アンドレーエフ氏は、1991年には軍事的観点から一切が極めて不首尾に行われた、と述べる。

 とはいえ、同氏によれば、GKChPには、プログラムがなかったわけではなく、同委員会の国民向けの声明では、企業活動の自由や民主主義や犯罪の取り締まりなどについて述べられていた。

 民間の専門家組織である国家戦略協議会のメンバー、ヴィクトル・ミリタリョーフ氏も、GKChPにはチャンスがあった、と確信している。同氏は、GKChPは、ゴルバチョフ氏のそれと原則的に変わらない政策を実施したろう、と考えており、「彼らの声明は、彼らが数日間政権の座に在ったときのPRの拙さが災いして、威嚇的なものとみなされたが、だからといって、彼らが何らかの独裁を現実的に求めていた、とは言えない。彼らは、本質的には、ゴルバチョフ氏と同じもの[改革されたソ連の維持]を求めていた」と述べる。

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