19世紀半ばにロシアは、極東の広大な領域を獲得し、そこに新しい都市を建設した。1856年に、アムール川のほとりにブラゴヴェシチェンスクが、1868年にハバロフスクが、その2年後に日本海沿岸にウラジオストクが建設された。
これらの新都市では、多種多様な商品の供給が必要になった。しかし、新しい領土とロシア帝国の首都は、長大な距離で隔てられており、国の中央部とのロジスティクスの確保、商品流通が難しかった。近隣国の、主に中国の進取の気性に富んだ商人が、そのニッチを埋めるのを助けた。
二人のグスタフ
ドイツの商人、グスタフ・クンストとグスタフ・アリベルスが、商業帝国を築き上げ、その規模は今から見ても大変なものだった。将来のビジネスパートナーは、中国で出会っている。二人は、中国市場での競争は激しすぎると判断し(巨大市場はすでにイギリスとフランスに占められていた)、クンストとアリベルスは、最近建設されたウラジオストク港に向かった。
二人は、ウラジオストクには実質的に競争がなく、しかも新居住地には商品が必要なはずだと考えたが、これは図に当たった。さらに1862年に同市は自由港となり、商品は無関税になった。こうして1864年に、クンストとアリベルスの本店がウラジオストクに現れる。
幸運なビジネスマンは、ウラジオストク市は拡大し始めるから商品の需要が増えると、正しく予測することができた。実際、同市は急速に成長していった。クンストとアリベルスは、ウラジオストクに家庭用品、主に中国からの食品、衣料品、宝石を提供した。大量に出荷したうえ、ロシア中部よりも概して高価だったにもかかわらず、商品はどんどん売れた。
事業は上り坂だった。1884年に二人のドイツ人商人は、ウラジオストクの中心部に最初のデパートをオープンした。その建物は今も残っている。若いドイツ人建築家、ゲオルク・ユングヘンデルによって設計された美しい3階建ての建築は、この街で最も目立ったものの一つに数えられる。
しばらくすると、同社の支店は、極東の他の都市にも開設された。かなり早期に、極東のハバロフスク、ブラゴヴェシチェンスク、ニコラエフスク・ナ・アムーレ、その他の極東の都市や集落に支店ができた。二人の商会はさらに、ロシア帝国の他の主要都市への拡大も開始する。
例えば、帝都サンクトペテルブルク、モスクワ、オデッサ、キエフ、ワルシャワ、リガなどにも支店を開いている。しかし、商会の利益はロシア国内に限定されなかった。支店は、日本の長崎、中国のハルビン、ドイツのハンブルクにも置かれた。
クンストとアリベルスは、慈善家としても記憶されている。例えば、二人がお金を出して、ルター派の教会が建立された。それは今でも、ウラジオストクで最も古い宗教建築として現存している。
クンストとアリベルスの商業帝国はやがて、アリベルスの息子ヴィンセント・アルフレッド、およびクンストとアリベルスのビジネスパートナーの一人、アドルフ・ダッタンが率いるようになる。
第一次世界大戦中にロシアはドイツと戦ったが、そのさなかにスキャンダラスな記事が首都の新聞に載った。その中で、クンスト&アリベルス商会がスパイ行為で告発されていた。
貴族の称号と地元住民の尊敬にもかかわらず、アドルフ・ダッタンは逮捕され、シベリア流刑となった。ある説によると、彼の商業上のライバルたちがこれに関わっていた。彼らは、戦争中に、自身の目的のために反ドイツ感情を悪用したのだという。
ダッタンは、第一次世界大戦終結後の1919年にようやくウラジオストクに戻ることができた。そして、1924年に亡くなるまで商会を経営していた。
しかし、1920年代後半、彼の商業帝国は、ボリシェヴィキ政権によって国有化された。1934年には、ウラジオストクのクンスト&アリベルス商会の本館に、同市の主要なデパート「GUM」が開設された。
この建物は今でもその名で知られている。クンスト&アリベルス商会のハバロフスク支店も「GUM」と呼ばれることになり、この歴史的建造物は今なおその目的で使われている。
ロシア人の魂をもつ中国人「チフォンタイ」の物語
紀凰台は、中国東部の山東省で生まれた。彼は1873年に通訳として初めてロシアを訪れている。彼が長年住んだハバロフスクが、彼のビジネスの主な舞台となった。
彼は、ロシアに居を定めたときからもう商人だったのか、それともハバロフスクに来てからここで商売を始めたのかについては、研究者の意見は分かれている。
まずこの中国人は、商店と工房を開いた。商売が発展するにつれて、収益の上がる部門、タバコ工場、製粉所を開設。さらに、チフォンタイは――ロシア人はロシア式に彼をこう呼んだ――、ハバロフスクでの社会的活動にもますます積極的に参加するようになり、慈善団体と公共のニーズのために、多額の寄付をした。また彼は、中国の同胞を忘れず、彼らがロシアに定住するのを助けた。
中国人は、ハバロフスク市への食料供給で重要な役割を果たしており、当時の人々はこのことに注目していた。しかし、一部の市民はこの状況に戸惑い、なかには、この地域における中国人の増加を恐れる者もいた。1896年8月11日付の新聞「ウラジオストク」の記者は、記事の中で地元の中国人による商売を批判し、忌々し気に書いている。
「ロシアの汽船に乗るロシア人乗客が、実は中国人にどれほど依存しているか。厨房がロシア人によって運営されていたとしたら、ロシア人の清潔さの観念は、中国人のそれよりはるかに上だから、ずっと清潔で整然としていただろう。ところが、新しい商会の船ではすべて、中国人が厨房とビュッフェを運営しているようだ。彼らは、噂によると、ハバロフスクの『全能』のチフォンタイの回し者だという。そのチフォンタイを、お人好しのロシア人は皆、尊敬している。そしてハバロフスクの住民は、彼に完全に依存している。中国から食料のパンを調達するのは彼だけだからだ」
しかし、チフォンタイ自身は、明らかに自分の第二の故郷に惚れ込んでいたようで、あらゆる方法でそれを支援していた。
1886年、彼は中国とロシア、両帝国の国境画定交渉に参加した。一部の中国人研究者は、チフォンタイが中国側をだまし、国境を示す石柱を間違った場所に設置したと信じている。そのため、ロシアは条約で想定されていたよりも大きな領土を得た。
チフォンタイはまた、日露戦争中にロシア軍に物資を供給し、これに多額の資金を投じた。正確な推計はないが、ロシア政府は後に、50万ルーブルを彼に払い戻した(ドルの為替レートと金の相場を調整して大まかに推計すると、現在の約1000万米ドルにはなるだろう)。しかしこの金額でさえ、チフォンタイの出費すべてをカバーしていない。この支援のために、彼はロシアの兵士から非常に尊敬された。
チフォンタイは、ロシア国籍の取得を数回試みた。しかしロシア当局は、彼が正教に改宗し、清王朝伝統の辮髪を切ることを要求した。チフォンタイはこれを望まなかったので、当局から拒否されてしまった。やっと1893年に彼は、ロシア国籍と新しい氏名を獲得できた。紀凰台は、 ニコライ・イワノヴィチ・チフォンタイとなった。
いくつかの情報によると――もっとも、一部の歴史家は伝説だとみなしているが――、1891年に皇太子時代のニコライ2世が、この中国人商人の店をのぞいた。商人は、これが皇太子だとは分からなかった。ニコライは彼に、良い布地を選ぶように頼んだ。未来の皇帝は、サービスを賞賛し、感謝のしるしに、官僚の地位を与えようと申し出た。中国人は固辞したので、ニコライは、「第一ギルドの商人」の称号を与えた。
ハバロフスクには、チフォンタイの家族がいたが、それについての情報はほとんど残っていない。彼の子供たちがロシア中央部での勉学のために送られたことが知られているだけだ。
ニコライ・イワノヴィチ・チフォンタイは、1910年に亡くなり、遺言によりハルビン市に葬られた。彼は、第一ギルドの商人であり、2つのロシアの勲章を授与されている。日露戦争中の軍への補給に参加したことと、ハバロフスクの発展に貢献したことに対するもので、勲3等スタニスラフ勲章と勲2等スタニスラフ勲章を得ている。
チフォンタイの事業のために建てられた建物は、ハバロフスクに現存する。これらの歴史的建造物は、過去の大規模な通商を想起させる。そして、極東のハバロフスクが第二の故郷となった中国人についても…。
チフォンタイのビジネスそのものについて言えば、ドイツ商人のそれとほぼ同時期に存在しており、やがて建物も含めて国有化された。