第一次大戦でロシア帝国のために戦った子供たち

歴史
ボリス・エゴロフ
 少年義勇兵は、第一次世界大戦中ロシア軍で特に士気が高かった。しかし、彼らの献身的な英雄的活躍も、この戦争でロシアが悲惨な結末を迎えるのを防ぐことはできなかった。

1. ロシア帝国は大きな士気を持って第一次世界大戦の開戦に臨んだ。ロシア社会は、ドイツに対してすぐに大勝利を収められるだろうと信じてやまなかった。戦争が終わるまでに栄光の一端にあずかろうと多くの人が前線に向かったのも驚くには当たらない。年齢が19歳に達していない者も少なくなかった。 

2. 数千人の9歳以上の児童が学業を差し置いて戦場に赴いた。大都市から、また小村から、単独あるいは集団で児童が馳せ参じた。まだ卒業していない陸軍幼年学校、神学校、一般の学校の学徒らが前線を目指した。「再び、何世紀もの時を経て、少年十字軍が繰り返された!」と作家コルネイ・チュコフスキーは1915年に見聞記『子供と戦争』(“Дети и война”)で綴っている。「彼らは少なくとも銃弾を配ること、さもなければ斥候として仕えることを夢見ていた」。

3. 未成年の義勇兵が軍に入隊するには、両親の同意書が必要だったが、もちろん彼らにそんなものはなかった。警察は学校から抜け出した少年らを捕まえて家に送り返したが、彼らはそこからも抜け出すのだった。戦場で活動する部隊にとっても、こうした客はしばしば迷惑だった。彼らはしばしば邪魔者扱いされ、誰も彼らに任務を与えようとはしなかった。孤児(あるいは孤児を自称する者)や遠方の僻地からやって来た農民の子供のほうが兵士からの待遇はずっと良かった。こうした子供は、家族のもとから抜け出してきた都会の子供と違って、保護者の問題が絡みにくかったからだ。 

4. こっそり前線にたどり着いた子供は、他の道を選ぶこともできたはずだった。完全に合法的に、国家の主導で盛んな発展を続けていたスカウト運動に参加する道だ。しかし、スカウトの活動は、負傷兵を乗せた列車を迎えたり、難民や兵士の家族を助けたり、戦場に向かった農民に代わって農作業を行ったりと、専ら銃後に限られていた。英雄になることを夢見る少年にとっては、こうした任務は全く満足がいかなかった。 

5. たとえ少年が「連隊の息子」として受け入れられたとしても、主な任務は弾薬の供給や部隊間の情報伝達、負傷兵の救護だった。例えば、オデッサ中学校の双子の生徒、ジェーニャとコーリャ(姓は不詳)は、看護師となって診療所で負傷兵や病人の看病をした。

6. しかし、より危険な任務が少年義勇兵に課されることもあった。彼らは重要な斥候となり、司令部によって敵の占領地へと送られた。成人よりもスパイ活動を疑われにくかったからだ。さらには実戦に参加することさえあった。15歳の陸軍幼年学校生徒ゲオルギー・レーヴィンは、偵察に成功してドイツ軍の大砲を使い物にならなくしただけでなく、ある将校の命を救い、聖ゲオルギー十字勲章を授かった。 

7. 12歳のシベリアの少年ゲオルギー・ナウーモフは、斥候として2度負傷し、勇敢さを讃えられて軍曹に任命された。さらに若い11歳のコサック、ウラジーミル・ウラジーミロフは合法的に戦場にやって来た。彼はコサック連隊少尉だった父に連れられてきたのだった。父親が死亡すると、ウラジーミルは多くの偵察作戦に参加した。捕虜にもなったが、逃亡に成功した。 

8. 戦場に行きたいという思いの強さでは、少女らも少年らに負けていなかった。大半は看護婦として働いたが、中には戦闘に参加した者もいた。1914年、14歳のキーラ・バシキロワはお下げの髪を切り、いとこのニコライ・ポポフの証書を持って前線にやって来た。彼女は自分を男と偽り、斥候になった。キーラは長らく秘密を隠し通したが、診療所に運び込まれてすべてが露見した。詐称者は銃後に戻されたが、敵兵を捕虜に取って敵情を明らかにした功績で授けられた聖ゲオルギー十字勲章は剥奪されなかった。少女はこれに満足しなかった。彼女は再びニコライ・ポポフとして軍に戻り、再び正体を暴かれた。その後、執念深いバシキロワは今度は本名で入隊願を出し、正体を隠す必要なく第30シベリア歩兵連隊で終戦を迎えた。 

9. 子供が戦場へ向かったのはロシア帝国だけの話ではなかった。英国でも数千人の未成年が年齢を偽って兵士となった。12歳のシドニー・リュイスはソンムの戦いに参加した。5歳鯖を読んだ13歳のジョージ・マーは、軍に入隊してしばらくは本当の年齢を隠し通したが、激しい銃撃戦の際に泣き出したことで嘘がばれた。未成年者は敵側の戦線でも戦っていた。森で2人の少年義勇兵が、小銃で武装した15歳のドイツ人斥候に出くわしたという逸話が残っている。道に迷って途方に暮れた少年斥候は、抵抗することなく投降した。

10. 第一次世界大戦は成人兵士の精神をも蝕んだ。少年兵士は言うまでもない。全露地方自治体・都市同盟難民就労部の報告では、「10歳から12歳の少年が血と暴力の環境で暮らしている。彼は特異かつ病的な精神状態に陥り、戦後平時の生活に戻すことはほぼ不可能となる」と記されている。その典型例が、タンボフ出身の14歳の中学生、ヴァシリー・スペランスキーだ。1915年に戦場に向かった彼は、何度か負傷し、間もなく家に帰された。ヴァシリーは学校の成績が下がり、態度も挑発的になった。中学校の生徒監から恒常的な叱責を受けた彼は、ついには生徒監を背後から回転式拳銃で射殺したのだった。

11. ロシアが第一次世界大戦から退く頃には、少年義勇兵は経験豊かな真の兵士に成長していた。これは時宜に適っていた。新たな紛争が彼らを待ち受けていたからだ。ロシアは史上最大の悲劇の一つ、ロシア内戦に呑み込まれていく。