1. ソ連のショーウィンドー
ラトビア人、リトアニア人、エストニア人が暮らすバルト三国は、ロシア帝国時代も、そしてソ連になってからも、常に特別な地位にあった。政府はソ連の他の地域とは異なるこの「ヨーロッパ的」地域の歴史的、経済的条件を考慮すべく努力した。
ソ連の沿バルト共和国の発展を目的に多額の資金が拠出された。しかしながら、革新的な経済改革の実施にはかなり慎重であった。
その結果、ラトビア、エストニア、リトアニアの生活水準はソ連の他の共和国よりも高いものになった。月給は他の地域の2倍から3倍、食料品や衣料品の品不足もそれほど深刻ではなかった。
2. 全ソ連にとっての保養所
ソ連中の数百万の市民が毎年、バルト海沿岸にある最高のサナトリウムに療養に訪れた。ラトビアのユルマラ、リトアニアのパランガなどである。エストニアのリゾート都市、パルヌにはソ連の宇宙飛行士のための特別なサナトリウムも作られた。
3. “ソ連の外国”
ソ連時代、外国に行くことができる市民はかなり限られていたことから、バルト三国はほとんどの人にとって、ほぼ行くことができないヨーロッパに代わる場所となった。観光客はここで今までまったく見たことのないドイツ、スウェーデン、リトアニアの建築物を目にし、リガやヴィリニュス、タリンの小さな通りを散策し、これらの国々に点在する西欧風の中世の城を訪ねた。
また映画を撮影するときに外国の風景が必要な場合、ソ連の映画監督たちはこの3カ国でロケを敢行した。ソ連のシャーロック・ホームズ(世界の最高の映画の一つ)が住んでいたベイカー・ストリートもリガで撮影された。
4. 産業の中心地
ソ連時代、バルト三国は国の主な産業中心地の一つとなった。いくつもの工場が地域レベルを超えて、全ソ連規模の企業となった。たとえば、リガ国立電気工場「VEF」はソ連全土の電気製品を作り、リヴァヌィのガラス工場はソ連でも最大の工場だった。
5. ソ連の西への出口
バルト三国の港(レニングラードやカリーニングラードではなく)は海上にある主要な西への出口だと考えられた。これらの港から、ソ連の主な貨物がヨーロッパへ運ばれた。またバルト海、北海、地中海へのクルーズもこれらの港から出航した。
6. 民族文化の維持
バルト三国に住む民族たちの口承文学、ラトビア、リトアニア、エストニアの古典文学作品、そしてもちろんバルト三国のソ連作家による思想的に正しい小説はすべてロシア語に翻訳され、数万部が印刷され、カリーニングラードからウラジオストクに至るソ連全土の図書館や書店に並べられた。
民族衣装を身にまとった数千人が参加する大規模な音楽祭は19世紀末から開催されてきたが、ソ連時代もこの伝統が忘れ去られることはなかった。逆に、こうした音楽祭を開催するために大きな広場やコンサートホールが建設された。しかし、政府はこうしたフェスティヴァルと、共産主義の祝日やレーニンの誕生日、革命の記念日などを合わせようと努力した。
7. バルト三国のソ連建築
バルト三国でも、ソ連の他の地域と同様、ソ連時代には変わり映えしないブロックのアパートの建設が大々的に進められた。しかしこれらの都市には、中世の街の外観を損ねないばかりか、それらとうまく調和したソ連建築の傑作も建設された。リガのシンボルの一つとなったのが、ラトビア科学アカデミーの建物である「スターリン高層建築」。このビルは、2003年、20世紀半ばの独特な建築記念物として、 欧州評議会の文化遺産に指定された。