ソ連の建国者レーニンの姉はどんな人物だったか:アンナ・ウリヤノワの生涯と活動

V. Estifeev/Sputnik, ロシア・ビヨンド
 アンナ・ウリヤノワ(1864~1935)は、そもそもの初めから弟ウラジーミル・レーニンと一緒に歩んだ。彼女は、弟が革命を目指して地下活動を行うのを助け、後には、弟に関する記録を保存した。彼女はまた、蒋介石の息子で、その後継者となった蒋経国とも縁があった。蒋経国は、モスクワに留学した際に、彼女の家に滞在したことがあった。

 1924年、アンナ・ウリヤノワは、弟ウラジーミル・レーニンの死後まもなく、家族の出自について驚くべき事実に遭遇した。彼女は晩年、「レーニン研究所」の創設に関わっていた。この研究所は、レーニンの著作を収集し、学術出版することを目的にしていた。

 アンナは、自分の家族についての歴史的資料を集めるために、レニングラード(サンクトペテルブルクから改名されたばかりだった)に出張するように依頼されたのだが、ロシア帝国内務省のアーカイブを閲覧しているときに、自分と弟の母方の祖父がユダヤ人であることを知った。すぐさま、共産党はこの情報を極秘とするように命じた。しかし、アンナは同意しなかった。さて、彼女に何が起きたか?

知的水準

 彼女の名は、アンナ・レーニナではない。「レーニン」という筆名を用いたのは、この一家ではウラジーミル・ウリヤノフだけで、後にこの筆名は世界的に有名になった。そのウラジーミル・レーニンの両親の最初の子がアンナで、1864年にニジニ・ノヴゴロドで生まれている。これは、両親がシンビルスクに移る前のことで、ここでレーニンは誕生した。

アンナ・ウリヤノワ

 アンナとウラジーミルの両親は、二人とも教師だ。アンナは、子供の頃から几帳面で努力家だった。彼女は、シンビルスク女子ギムナジウムの最初の生徒の一人であり、16歳のときに学校教師の資格も取得した。

 しかし、それは彼女の教育の終わりではなかった。19歳のとき、彼女は首都サンクトペテルブルクのベストゥージェフ女学院に入学した。これは、ロシア初の女子大学で、ロシア帝国で最も有名な、女性のための高等教育機関だ。

 要するにアンナは、当時の知的エリートに属していた。1886年には、彼女は革命活動を始め、その1年後に流刑を宣告される。この年、彼女の別の弟、アレクサンドル・ウリヤノフが皇帝アレクサンドル3世の暗殺を企てた陰謀に加わり、摘発された。アレクサンドル・ウリヤノフは、同1887年に絞首刑に処せられる。

アレクサンドル・ウリヤノフ

 この悲劇のために、当時16歳だったウラジーミルの心は荒んだ。アレクサンドルの逮捕と処刑の後、親戚も友人も皆、この一家に背を向けた。1887年12月、ウラジーミルは政治デモに参加し、カザン大学から放校処分となった。こうして彼の政治的経歴が始まったが、彼の姉は、彼と同じく勇敢かつ断固として、彼を大いに助けた。

レーニンの背後のキングメーカー

 アンナは、政治犯の姉として、ヴォルガ沿岸地域に5年間流刑となったが、その間の1889年に、サマラ市近郊のトロスチャンカ村で、結婚している。夫は、物理学を専攻する学生で革命家のマルク・エリザロフ(1863~1919)だ。彼は後にソ連最初の鉄道人民委員(大臣)となったが、間もなく発疹チフスで亡くなった。

マルク・エリザロフ

 マルクとアンナは、かつてサンクトペテルブルクで出会っていた。二人が結婚したことで、アンナは、シベリア流刑を免れることができた。マルクとアンナの母が購入した土地に二人は住み、そこに弟ウラジーミル、母、妹たちが加わった。1890年から、彼らはサマラに移った(現在、そこには邸宅博物館がある)。

サマラのレーニン邸宅博物館

 1893年以降、夫妻はモスクワに居を定める。アンナ・ウリヤノワ=エリザロワは、革命活動、および革命的なパンフレットと新聞の執筆、印刷、配布を積極的に続けた。

 1895年のこと、ウラジーミル・レーニンは、将来の社会主義革命の計画をすでに構想していたが、サンクトペテルブルクで逮捕され、1897年に3年間の流刑を宣告された。そして、妻ナデジダ・クルプスカヤとともにシベリアで過ごすことになった。 

 一方、アンナ・ウリヤノワ=エリザロワは、1896年にサンクトペテルブルクに移った。彼女は、レーニンの社会に対する「目」、連絡役となり、彼の独創的な著作、『ロシアにおける資本主義の発展』(1899)、『唯物論と経験批判論』(1909)を完成させ、刊行するのを助けた。

 1910年代には、アンナは40代になっており、レーニンにとっては一種のキングメーカー的存在だった。彼女は1909~1913年に、夫と妹と一緒にサラトフ県(現在は州)に住んでいたが、その間に三人は、当時違法だったロシア社会民主労働党(1898年に創立)の地下活動を組織した。

アンナ・ウリヤノワ

 1912年に三人は逮捕された。しかしアンナはすでに、「塀の向こう」の暮らしを良く知っており、このときの収監が最初でも最後でもなかった。彼女は1904年、1907年、1912年、1916年、1917年に逮捕されている…。そしてついに1917年の革命が起きた。アンナと弟が準備してきた出来事だ。

蒋経国の「里親」としてのアンナ

 革命後すぐにアンナの存在感は薄くなったように見える。1919年に夫は亡くなった。

 夫妻には子供はいなかったが、内戦(1918~1921)で荒廃した、革命後のこの時期、混乱と残虐のなかで、夫妻はある少年を養子にした。後の作家ゲオルギー・ロズガチョフ(1906~1972)だ。アンナは、夫の死後は、少年を一人で育て上げた。

 アンナは、ソビエト政府の一員とはならなかったが、慈善活動に尽力し、浮浪児や孤児を助けた。ゲオルギーの他にも、彼女には「里子」、蒋経国(1910~1988)がいた。

 蒋経国は1925年に、父であり中華民国の指導者である蒋介石(1887~1975)の命令でモスクワにやって来た(中華民国政府は、後に台湾に逃れることになる)。若き蒋経国はロシアで、エリザロフの姓を名乗った。アンナはそれを快く許した。蒋経国は後に、1978年に父の後を継ぎ、台湾の総統に就任した。

蒋経国

 しかし、アンナはまだ、最後の「発見」をしていなかった。弟レーニンが死ぬまぎわ、もはやどうにもならず精神も病んでいることが明らかになると、彼女は、弟の記録と著作の保存に携わる。彼女は、後に「マルクス=エンゲルス=レーニン研究所」として知られることになる、「レーニン研究所」の設立の裏方だった。これは、公式に出版されたマルクス主義文献の主要な研究センターであり出版所だった。

マルクス=エンゲルス=レーニン研究所、1931年

 アンナは、自分の家族の歴史を調査していたとき、祖父アレクサンドル・ブランクが実はユダヤ人だったことを知って驚いた。アンナ自身も、弟妹たちも、先祖にユダヤ人がいたことを知らなかった。彼らの両親はたぶん一度もそれについて話さなかったのだろう。しかしアンナは、弟ウラジーミルがユダヤ人についてとても好意的に話していたし、明らかにユダヤ人である知己がたくさんいたことを思い出した。

レーニンの祖父アレクサンドル・ブランク

 アンナは、この事実を公にすることを決心した。しかし、ソ連共産党中央委員会は、この情報を極秘とし、アンナは、その決定に従わざるを得なかった。 

 彼女は、1932年と1934年に、ヨシフ・スターリンに手紙を送り、将来ソ連で反ユダヤ主義が高まったとき、この情報を公表するように求めた。彼女は、レーニンが実はユダヤ人の血を引いていることを明らかにするのが重要だと感じていた。おそらくそれで、緊張を和らげるか抑えることができるのでは、と考えたのだが…。

  「この事実は、反ユダヤ主義と戦ううえで…大いに役立つかもしれません。…この事実は、ユダヤ人の並外れた能力と、彼らとの混淆の利点を裏づけます。これは、イリイチ(レーニン)が常に共有していた信念です。イリイチはいつもユダヤ人を尊敬していました…」。アンナはこう書いた。

  しかし、スターリンがアンナの嘆願を拒んだ。

 この手紙が実際に書かれたかどうかは、2011年に国立歴史博物館で実物が展示されるまで、議論されていた。

アンナ・ウリヤノワのマネジナヤ通り9番地の記念アパート

 アンナは1935年にモスクワで亡くなった。モスクワのクレムリンの城壁を見下ろす、マネジナヤ通り9番地の記念アパートは、1992年まで存在していた。この年、記念アパートの基金は、国立歴史博物館の所有となった。

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