レーニンの生涯:その驚くべき5つの逆説

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 彼をマルクス主義のメシアと呼ぼうと、残酷な独裁者と呼ぼうと、皆一つのことには同意する。ウラジーミル・レーニン(1870年-1924年)は並大抵の男ではなかった。その証拠をお見せしよう。

1. レーニンはホワイトカラーでありながら労働者を率いた

 ウラジーミル・ウリヤノフ(「レーニン」は偽名)は、1870年4月22日に中流家庭に生まれた。父のイリヤは公立学校の校長だった。若きウラジーミルは古典的な教育を受けた。とりわけラテン語とギリシア語の学習に数百時間を費やしたわけだ。レーニンがこれらの言語に長けていたという証言もある。 

 さらに、彼の母方の祖父は地主貴族だった。後にレーニンは仲間のミハイル・オリミンスキーに「私はある意味地主の子孫だ」と話している。1890年まではカザン、サマーラ、サンクトペテルブルクで法律家として働き、燕尾服にシルクハットと、かなりきっちりとした服装をしていた。

 しかしだからといって、レーニンが真の革命家ではなかったというわけではない。逆に十代の頃から彼は模範的な反体制活動家だった。兄のアレクサンドルはツァーリ暗殺計画に参加して処刑された。ウラジーミルはこの報せに際し、「だめだ。違う道を行こう。これは我々が歩む道ではない」と言った。ツァーリを暗殺する代わりに、彼は体制そのものを打倒することにしたのだ。

 

2. 1917年までの15年間、彼は厄介者だった 

 1895年、サンクトペテルブルクで暮らしていたレーニンは逮捕されてシベリア流刑となった。その頃までに彼はすでに階級闘争と資本主義打倒に関するマルクスやエンゲルス、その他何十人もの社会主義思想家の著作すべてを吸収していた。1900年にヨーロッパへ逃げた際には、レーニンはすでに卓越した哲学者かつ雄弁家として知られていた。 

 ヨーロッパの社会主義者らの多くは、彼が少なくとも自分たちにとって真のくそったれになろうとはつゆも思わなかった。非合法新聞『イスクラ』と『プラウダ』の刊行、マルクス思想の労働者への伝道、不首尾に終わった1905年の革命への参加といったマルクス主義活動の他、レーニンはマルクス主義者らの分裂も促したのだ。

 1902年、ロシア社会民主労働党第2回代表大会の後、ロシアの社会主義者は2つの派閥に分裂した。レーニンはより正統なボリシェヴィキを率い、それまでの仲間、すなわちメンシェヴィキと合併する努力を15年間一切しなかった。しかも、弟子にはこう教えていた。「メンシェヴィキのメンバーの喉元をつかんだら、息が止まるまで絞めろ」。レーニンの政治スタイルの象徴だ。ボリシェヴィキ内でも、彼は自分に逆らう者には容赦せず、反対者を締め出すのだった 

 2017年にレーニンの最新の伝記を著したレフ・ダニルキンは、レーニンを「プロの分離論者」と呼び、彼が完全なマキャベリ・タイプ、つまり冷笑的で容赦のない政治家だったとしている。同時にダニルキンは、「レーニンは忠実なボリシェヴィキという効果的かつ信頼できる機構を作り、活用した」と記している。

 

3. 革命勝利後にさらなる革命を求めた 

 1917年3月、破滅的な第一次世界大戦と経済危機の後、ニコライ2世は廃位された。二月革命は成功し、帝政は倒れた(47歳のレーニンはこれに全く関与していなかった)。臨時政府は憲法制定会議の設置を目標に国づくりを進めていた。ボリシェヴィキの穏健なメンバー(例えばヨシフ・スターリン)を含め、皆ロシアで初めて民主主義が勝利したことにとても満足していた。 

 そしてレーニンが4月にスイスから帰国し、直ちに四月テーゼを発表した。曰く、まだ十分ではない。彼はロシアが「革命の第一段階から、プロレタリアと最貧困農民の手に権力を移すべき第二段階へと移行する途上にある」にすぎないと主張した。言い換えれば、もう一度革命を起こしてブルジョワと彼らの偽りの民主主義を打倒し、真の労働者国家を建設しようというわけだ。

 「これは2014年にロシアで誰かが『クリミアを編入した。よろしい。だがロシアは月を編入する必要がある』と言っているようなものだ。たわごとに思われた」とレフ・ダニルキンは述べている。だがこれは上手くいった。忠実で団結力のある自身の党に支えられ、レーニンは労働者と農民に土地と平和を約束して彼らの心に火を点け、1917年11月に政権を奪取したのだ。

 

4. 献身的な革命家が圧制的な国家を作った 

 レーニン率いるボリシェヴィキは、1917年から1922年のロシア内戦に勝利し、1922年にはかつての帝国の廃墟の上にソビエト社会主義共和国連邦という新国家を築いた。だがこの国の政治は過酷だった。レーニンは政敵を造作もなく根絶していった。1917年から1922年の赤色テロで帝政を支えてきた50万人から100万人の人々が殺害されたといわれている。帝政末期の1875年から1912年に処刑された人の数は6千人だ。比較するだけでも恐ろしい。

 「新たな社会主義社会を建設するために貴族や聖職者、商人、コサック、田舎のブルジョワといった集団を丸ごと抹殺したのだ」と歴史家のキリル・アレクサンドロフは言う。レーニン本人も異論はないだろう。「我々は反革命運動者に対する大規模な集団テロのエネルギーを鼓舞する必要がある」とレーニンは1918年に記している。彼の目標は、集団を階級のない理想の未来(彼は本気でその未来を信じていた)へと導く共産党に統治された国家の建設だった。彼は確かに国家を作ったが、階級のない未来はやって来なかった。

 

5. すべてを勝ち取った後、燃え尽きた彼は謎の病で死んだ 

ゴールキ別荘、1923年。ウラジーミル・レーニンの最後の写真の一つ

 レーニンに勝ち誇る暇はなかった。代わりに彼は新たなソビエト国家の政治経済システムを作るという重労働に生涯を捧げた。2度の卒中(1922年と1923年)に襲われた彼は、精力的な指導者から車椅子に乗った哀れな男の抜け殻に変わってしまった。「彼は話せなかったが、自分の身に起こっていることは理解していた。それは恐ろしいものだった。彼の顔は苦しみとある種の恥に満ちていた」とレーニンを看病した医師の一人、ミハイル・アヴェルバフは綴っている。

 50代前半の男の身体を蝕んだ病が何だったのかは未だに謎だ。1924年に公表された公式の説明によると、レーニンの死因はアテローム性動脈硬化だった。別の説では、レーニンは梅毒で死んだ可能性があるという。この説によれば、1920年代のロシアでも、性交渉によらずに日常生活で梅毒にかかった可能性があると発表するのは具合が悪かったため、ソビエト政権は事実の公表を控えたというのである。 

 いずれにせよ、生涯働き、闘い、書き、旅した容赦のないレーニン、基本的に常に動いていた男にとって、無力な状態は悲惨な結末だったに違いない。彼は1924年1月21日に死去し、偶像化されて廟に安置され、以後60年以上にわたって共産主義の神として崇めらた。これはひょっとしたら彼の生涯で最大の逆説だったかもしれない。帝国を打倒して革命を体現した男が石像や肖像となり、その著作や語録は今では大半のロシア人を退屈させるだけになっている。

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