ロシアの無政府主義者がいかにして「米国で最も危険な女」になったか

歴史
ボリス・エゴロフ
 エマ・ゴールドマンは米国政府にとって長年頭痛の種だった。また、彼女はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の政府とも反りが合わなかった。

 「金持ちの屋敷の前で抗議し、仕事を求めよ! 仕事が与えられないのなら、パンを求めよ! パンが与えられないのなら、奪取せよ!」と労働者の会合でエマ・ゴールドマンは熱弁を振るった。20世紀初頭の無政府主義運動の最大の指導者の一人、「赤きエマ」は、社会の正義を実現するためなら手段を選ばなかった。 

 米国の既成体制に対する過激な活動により、彼女は国家の敵となった。FBI初代長官のジョン・エドガー・フーヴァーは、ゴールドマンを「米国で最も危険な女」とまで呼んでいる

 

国家権力に対する闘争

 エマ・ゴールドマンはロシア帝国西端のユダヤ人家庭に生まれたが、17歳で米国へ移住した。彼女は間もなく現地の無政府主義運動に没頭する。

 ゴールドマンは権力機関や宗教機関の敵となり、男女平等を求め、女性の権利を制限する婚姻に反対した。「私は自由が欲しい。自己表現の権利が欲しい。何か美しいもの、鮮やかなものを手にする全面的な権利が欲しい。私にとって無政府主義はまさにそれだ。私はこうして生きていく。残りの世界、監獄、迫害には目をやらず、何物も顧みずに。たとえ最も近しい同志らに責められようとも、私は素晴らしい理想を生きていく」。 

 1892年、彼女は思想を同じくする恋人のアレクサンドル・ベルクマンを助けて「米国一の憎まれ者」ヘンリー・クレイ・フリックを暗殺しようとした。フリックは労働組合の不倶戴天の敵だった。暗殺は未遂に負ったが、ベルクマンは刑務所で14年を過ごすことになった。エマ自身は刑務所送りとならなかったが、その後「暴動の扇動」や「不適切な書物の配布」を理由に幾度となく逮捕された。ウィリアム・マッキンリー大統領の暗殺計画に参加した疑い(立証はできず)で捕まったこともあった。

 1908年、エマ・ゴールドマンは米国籍を剥奪されたが、米国に留まって自身の理想のために闘い続けた。しかし、米国政府は宿敵を排除する方法を見出した。

 

ソビエトの方舟

 1919年6月、米国のいくつかの街で一連のテロ事件が起こった。イタリア人無政府主義者ルイージ・ガレアーニの追従者らが検察官と裁判官を標的として企図されたものだった。犠牲者は出なかったが、国中がパニックに陥った。

 結果として、前例のない対策が取られた。司法長官アレキサンダー・ミッチェル・パーマーが指揮したいわゆるパーマー・レイドの一環で、249人の急進左翼活動家と無政府主義者が拘束された。その大半はアメリカ国籍を持たないロシア帝国出身者だった。 

 その中にエマ・ゴールドマンもいた。「暴動の扇動」が理由だったが、無数の前科も念頭に置かれていた。思想を同じくする同志らとともに、彼女はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国に向かう汽船ビュフォード号に乗せられた。この汽船はメディアによってソビエトの方舟とあだ名された。「赤きエマ」の排除にとりわけ熱心だったのが、当時パーマーの助手を務めていたエドガー・フーヴァーだった。

 

ソビエト・ロシア 

 無政府主義者とマルクス主義者はずいぶん前に袂を分かっており、ゴールドマンはマルクス主義を「冷たく機械的で隷属を強いる公式」と呼んでいたにもかかわらず、エマは社会主義が勝利した国に大きな希望を抱いていた。しかし、彼女は間もなく失望することになる。

 「赤きエマ」はボリシェヴィキが彼女の同志たる無政府主義者を迫害し、巨大な官僚機構を築き上げていることに大いに不満を覚えた。レーニンと会った彼女は、この「慧眼の野蛮人」が「非常事態においては言論の自由は犠牲になり得る」と言ったことで絶望した。

 彼女の堪忍袋の緒が切れたのは、クロンシュタットの水兵の蜂起が容赦なく鎮圧された時だった。ゴールドマン自身、残酷な手段と無縁ではなかった。曰く、「社会悪との闘争においては、あらゆる極端な手が許される。極端な見方は大部分が正しいからだ」。しかし、クロンシュタットの一件は残酷を極め、彼女でさえ目を覆うほどだった。「私の眼前にあったのは、いかなる建設的な革命努力を破壊し、ありとあらゆるものを抑圧し、侮辱し、解体する巨大なボリシェヴィキ国家だった」。

 

帰国

 エマ・ゴールドマンと、長い旅の間ずっと彼女に連れ添ったアレクサンドル・ベルクマンは、ロシアを去り、二度と戻ることはなかった。異国での放浪の日々が始まった。 

 ボリシェヴィキ体制を受け入れなかったことで、かなりの同志が彼女から離れていった。しかし、「赤きエマ」がロシア・ソビエト連邦社会主義共和国についての自身の考えを変えることはなかった。 

 エマ・ゴールドマンは1940年5月14日にトロントで死去した。米国政府は長年の宿敵とついに和解し、遺体を米国内に埋葬することを許した。イリノイ州フォレストパークにある彼女の墓標には、彼女の発言の一つが刻まれている。「自由は人民のもとに降ってこない。人民が自ら自由に到達せねばならない」。