なぜソ連の子どもたちは皆、このおもちゃの自動車に憧れたのか?

歴史
アレクサンドラ・グゼワ
 ソ連時代、おもちゃはそれほどたくさんあるわけではなかったが、数少ない幸運な子どもは本物の自動車そっくりのおもちゃを持っていた。

 ペダルがついた子ども用の自動車は超貴重な存在で、かなり贅沢なおもちゃであり、ソ連の子どもなら誰もが憧れたものだ。ソ連にはこのペダル式の自動車が数十種類存在した。モスクヴィチ、ラケタ、ポベダ、ラドゥガなどである。その中には実際の自動車を縮小コピーしたような本格的なものもあった。そしてどの自動車もディーテールに細心の注意が払われたソ連デザインの素晴らしい伝統を引き継ぐものであった。しかもそれらのおもちゃはソ連式の頑丈な構造となっていた。もっともこうしたおもちゃを持っていたのは、数少ない幸運な子どもだけであった。

 セルゲイは1960年代にモスクワで幼年時代を過ごした。当時を振り返り、こんなおもちゃを手にすることなど考えられなかったと話す。まず非常に高価であったこと、そしてこのおもちゃがモスクワの主要なおもちゃ屋であるジェツキー・ミール(子どもの世界)でしか売られておらず、店頭に並ぶやいなやすぐに売り切れたからである。

 「近所であんな自動車を持っていたのは1人だけだったと記憶しています。どこかの“きちんとした”人の息子でした。わたしが持っていたのは三輪車だけでしたが、わたしは大喜びで乗っていました」とロシア・ビヨンドからの取材にセルゲイは答えてくれた。

 加えて、多くのソ連市民にとって住宅事情もこのおもちゃを買うことができない理由の一つであった。家に置いておく場所がなかったのである。伝説的な映画「イワン・ワシリエヴィチ、転職する」の中には、このおもちゃの自動車がベビーカーとともに階段の踊り場に保管されているシーンがあるが、どこの家でもこんな風に保管できるわけではなかった。このような贅沢品が絶対に盗まれることのないコンセルジュがいるような模範的なマンションでしかありえなかった。

 オレグは1980年代、全体的な品不足の時代に幼年時代を送った。おもちゃももちろん品不足であった。「こんな自動車が近所に現れたら、大騒ぎになり、羨望の眼差しが向けられ、幸せな持ち主はみんなの“お友達”になったものだった」。

 しかし自動車には大きな欠点があった。自動車は年齢4歳から5歳の一定の身長のかなり痩せ型の体型用に作られていた。そこで残念ながら、実際、この自動車で遊べるのは1シーズンだけだったのである。

 いくつかの都市では、このような自動車をレンタルして、公園や中央広場を周回できる場所があった。もっともソ連時代の親たちは子どもをあまり甘やかさなかったため、自動車遊びやアイスクリーム、綿菓子などは、大きなお祝いごとがあるときや誕生日にだけ与えてもらえる夢のようなものであった。

 ボリスは1980年代にソ連のリガで育った。リガでは品不足がそこまで深刻ではなかったため、このようなおもちゃの自動車を手に入れるのは比較的簡単であった。ボリスはこのおもちゃがいかに重く、年上の子どもたちがこの“おもちゃ”を3階まで運ぶのを手伝ってくれたのをよく覚えている。一人ではとても持ち上げられなかったのである。 

 ソ連では子どもたちをあらゆる方向で発達させることが奨励された。もし子どもが運転に興味を持ったなら、運転に関するサークルに通うことができた。“若きレーサー”たちの間で競技会が開かれることもあった。

 1966年、モスクワでは雑誌「若者たちの技術」の主催で、愛好家が作った自動車やバイクのパレード兼コンクールが開かれた。パレードはモスクワの中心部を一周し、ゴーリキー公園では作品の展示が行われた。

 たとえば、下の写真の“モスクヴィチ”は大量生産されたものではなく、個人の手で作られたもの。

 もっと幼い子ども用として、“簡易”バージョンの乗り物もあった。子どもは上からまたがり、親がハンドルを持って動かすというものだった。下の写真は「ヴォルガ」。この車を持っていた人は、これに乗るのときは外には出ず、家の中でしか遊ばなかったと回想している。

 現在、ロシアの店では最新の外国車を含め、あらゆる自動車を自由に買うことができる。しかしコレクターたちはソ連のペダル式のおもちゃの自動車にかなりのお金を出してもいいと考えている(ネット上の取引の価格は4千ルーブルから5万ルーブル=およそ5,500円から77,000円)。新しく色を塗れば、美しく生まれ変わり、まだ10年以上は使うことができるだろう。