大公女アナスタシア生存説を検証する

歴史
ゲオルギー・マナエフ
 ロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世の末娘、大公女アナスタシアが奇跡的に処刑を免れたという伝説はいまだに消え去っていない。その真偽を検証してみよう。

アナスタシア伝説を創ったのは誰か?

 なぜ、ほかならぬアナスタシアが、このゴシップのために「選ばれた」のか。その理由はよく分からないが、彼女がニコライ2世と皇后アレクサンドラ・フョードロヴナの末娘だったからかもしれない。1901年に皇帝一家の四女として生まれており、彼女の後は、待望の跡継ぎで末子のアレクセイが1904年に誕生している。

 この伝説の起源については、はっきりした証拠や資料はない。もっとも、ロシアの歴史においては、少なからぬ詐欺師が、自分は奇跡的に生き延びた皇子、皇女だと主張している。

 例えば、偽ドミトリーは3人いた(彼らは、イワン雷帝の夭折した息子、ドミトリー皇子になりすました)。また、1770年代にコサックと農民の大反乱を率いたエメリヤン・プガチェフは、自分はピョートル3世で奇跡的に殺害を免れたと言い張った。

 

アナスタシア誕生をめぐる状況は?

 アナスタシアが生まれる前、母后アレクサンドラは、何としても跡継ぎを産みたいと心を痛めていた。なるほど、皇后にはすでに3人の娘がいた。しかし、ロシア帝国の帝位継承法によれば、大公女は、「男系男子が絶えた場合」にのみ、帝位を継承することができた。だから、この時点では、ニコライ2世の弟、ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公が、次の継承者だった。これは、皇帝一家にとっては、とくに皇后アレクサンドラには受け入れがたいことだった。

 皇后は、神秘主義に深く入り込んだ。1901年、催眠術師で詐欺師のアンセルメ・フィリップという男がロシアの宮廷に現れた。彼のやり方は非常に「印象的」ではあった。例えば、彼は小さなベルの付いたイコンをアレクサンドラに贈った。これは、「悪意のある人が皇后に近づくと彼女に警告する」ということだった。

 この男はまた、男児の誕生を「予言した」。それから間もなく生まれたのがアナスタシアだ。皇室の多くの人々は(もちろん、母と父は別として)、失望した。「アリックス(皇后アレクサンドラ)がまた娘を産んだ!」。ニコライ2世の母、マリア・フョードロヴナは、娘のクセニア・アレクサンドロヴナ大公女にこう書き送っている。

 

アナスタシアの人柄は?

 アナスタシアの私生活についての情報はあまりない。主としてそれは、彼女の生活が別段変わったものではなく、姉たちのそれとあまり違わなかったからだろう。アナスタシアは非常に勉強熱心というわけではなかったが、家庭で型通りの教育を受けた。歌と踊りが大好きで、水彩画を頻繁に描いていた。

 第一次世界大戦中、アナスタシアは姉たちと同じく、サンクトペテルブルク近郊のツァールスコエ・セローの離宮で、志願して看護師となった。離宮の部屋の多くが病棟になった。

 1917年のロシア革命とニコライ2世退位の後、皇帝一家は(アナスタシアを含め)、囚人としてシベリアのトボリスクに運ばれ、それからエカテリンブルク(モスクワ東方1700キロに位置するウラルの主要都市)に移された。1918年6月18日、アナスタシアは最後の誕生日を祝った。

 

アナスタシアの死の状況は?

 アナスタシアとその家族全員は、1918年7月17日未明に射殺された。一家の遺体は、エカテリンブルク北方15キロのコプチャキ村近くの、「四人兄弟」と呼ばれる廃坑に運ばれた。そこで遺体は、硫酸をかけられて識別不可能な状態にされたうえ、立て坑に放り込まれた。

 翌日、処刑隊を率いたヤコフ・ユロフスキーとその部下たちは現場に戻り、一部の遺体を別の場所に埋めた。これは、皇帝一家の遺体の捜索を混乱させるために行われたものだ。つまり、一家の人数と遺体のそれが一致しないように、という配慮だった。

 

アナスタシアの遺体はいつどこで発見されたか?

 皇帝夫妻とその3人の娘の遺体は、1979年に初めて、ポロセンコフ・ログで発見された(これは、エカテリンブルク近郊の軟弱な沼沢の多いくぼ地で、最初の埋葬地となった廃坑から旧コプチャコフスカヤ街道を数キロ行ったところにある)。しかし、この発見は、ソ連崩壊まで機密扱いとなっていた。1991年にさらに調査が行われた結果、皇太子アレクセイと大公女マリア・ニコラエヴナの遺体がこの場所にはないことが判明した。

 2007年、2人の遺体は、ポロセンコフ・ログ付近の別の穴で見つかった。

 2008年、DNA鑑定により、新たに見つかった遺体がアレクセイとマリアのものだと証明された。ロシアの調査委員会が実施した2019年の調査でも、その結果が確認されている。

 この結果はさらに、利害関係のない中立的な組織、つまりアメリカのメリーランド州ロックビルに所在するアメリカ軍DNA鑑定研究所(AFDIL)によって承認された

 

何人の女性がアナスタシアになりすましたか?

 アナスタシアがどうにかして皇帝一家の処刑から逃れ生き延びたという噂が、早くも1918年の処刑直後からヨーロッパのロシア人亡命者の間に流れ始めた。

 1920年にベルリンで、若い女性が橋から飛び降りようとしたところを、警官によって止められた。この女性は精神が衰弱した状態にあり、ダルドルフの精神病院に送られた(ダルドルフは現在のベルリン市ライニッケンドルフ区ヴィッテナウ)。2年後、彼女は自分がアナスタシア大公女だと言い始めた。このアンナ・アンダーソン、およびもう一人の偽アナスタシアについて、詳しくはこちらの記事をご覧いただきたい。

 他のよく知られた偽アナスタシアとしては次の女性がいる。

 エレオノーラ・クリューゲル(1901~1954年)は、ブルガリアの農村で自分は大公女だと示唆した。この村には、ソ連からの少数のロシア人亡命者がいた。

 ナジェージダ・ワシリエワ(~1971年)は、精神を病んでいたと考えられている。ソ連の精神病院と刑務所に長年収監され、結局、スヴィヤジスク島(現タタルスタン共和国に位置する)の監獄付属精神病院で餓死した。

 ナタリア・ビリホゼは、グルジア(ジョージア)女性で、1995年になって、実は自分はアナスタシアだと「明かした」。2000年に死亡しており、最後の偽アナスタシアである。

 偽アナスタシアは計30人を超える。あるロシア人男性、アナトリー・イオノフ(1936~)にいたっては、アナスタシアの息子だと主張た!チャンスに便乗してみない手はあるまい?…

「ロシア・ビヨンド」がLineで登場!是非ご購読ください!